若狭麻都佳『女神の痣』 | 詩はどこにあるか

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 若狭麻都佳『女神の痣』(思潮社)。視覚にこだわっている詩人だ。まわりの存在だけではなく、文字の視覚にもこだわっている詩人だ。たとえば「続・続・二重写しのトロンプルイユ」。

喉には
穴があいて
ことば
から


   抜け
      おちる

 こうした書き方を見ると、ふと疑問が浮かぶ。若狭には、ほんとうに、こんなふうに世界が動いて見えるのか。「色が抜けおちる」というのは存在から色が離れて落下していくというふうに見えるのか。それとも「抜けおちる」ということが親身に実感できなくて、ことばに頼って(あるいは、ことばの表記に頼って)、それを視覚として納得したいのか。私には、どうも後者のように感じられる。
 「色が抜け落ちる」というとき、私は、その色が、ある存在から離脱して落ちていくというふうには感じられない。抜け落ちた色がその存在の足元に落ちているとは感じたことがない。それは目に見えないままどこかへ消えてしまっている。抜け落ちるとは言っても落下ではなく、むしろ浮上して霧散する、どこにも存在しなくなるという感じがする。抜け落ちた色を、その存在のそばに見つけることは私にはできない。見つけるとしたら、その存在の近くではなく、むしろ信じられないような遠く、どうしてこんなところにあるのか、と思うようなところである。ああ、あの色はこんなところに存在していたのか、と発見することはあっても、その存在の足元に抜け落ちた色を見た記憶がない。
 そんなことを考えながら、私は、若狭はことばを見たことを書いているのではなく、見たいものがあって書いている、動かしていると想像する。しかも、ことばは見たいものを見たいものの形であらわしてくれると信じてことばを動かしている。

 若狭は、では何を見たいのか。「ことば」を見たいのだろう。あるいは「ことば」が隠しているもの、ことばでしか言い表すことのできないもの、見えないものが見たいのだろう。ことばで見えないものにたどりつきたいのだろう。たどりついて、しかも、それをことばとして見たいのだろう。「あらまほしき」。

初夏の夕刻。
風の疾さで
ことばが走る
熱が抜けはじめた足首に置き忘れた
懐かしい蝙蝠の
揺らぐ羽音
にわかに溢れてはひらめいて
少しとまどいながら
微笑む誰かが
瞳の隠れ家に
ほんとうの誰かを映している
そこだけは
とても明るい
せせらぎのように舞いながら
幽かに呼んでみる

“キミは…ぼく?”

 「微笑む誰かが/瞳の隠れ家に/ほんとうの誰かを映している」。肉眼で見ることができるのは「瞳」までである。それから先はことばでしか見ることができない。
 そして、そこに若狭が見ようとしているのは……。
 「キミは…ぼく?」と問いかけている。「わたし」ではなく「ぼく」ということばを選んで、問いかけている。「わたし」を直接見るのではなく、「ぼく」という虚構をとおして「わたし」を見ている。そうであるなら簡単だが、そうではなく、若狭は「わたし」ではなく「ぼく」を見たいのだ。「ぼく」はことばでしか見ることのできない若狭である。ことばでしか見ることのできないものに、若狭は自分自身をゆだねている。
 若狭は若狭であること、「わたし」であることを自覚している。たとえば「半身」。

半身の
蝉の姿をした
きみとわたしを
陶然と凝視(みつ)めている
わたしがいる

 そして「わたし」を見たいと望むとすれば、それはこの作品にあらわれているように「わたし」を見つめる「わたし」をこそ見たいのだ。そういう人間にこそなりたい、と言い換えればわかりやすくなると思う。「わたし」は常に存在するが、その「わたし」は理想の「わたし」ではない。ことばでたどりつきたい「わたし」、ことばでしかたどりつけない「わたし」ではない。ことばでしかたどりつけない「わたし」は、「わたし」をみつめる「わたし」である。

 詩集の最後にタイトルとなった「女神の痣」という作品がある。この作品には注釈がついている。「これは、白銀の毛におおわれ異様に光る三ッ目と、頭に一本の水晶の角を持つ美しいフェノメーヌが、わたしに囁いてくれた詩です。」
 「わたし」ではない誰か(ここでは「フェノメーヌ」と呼ばれている)がささやきかけてくれることば、「詩」そのものになりたい、ことばそのものになりたい、という欲求が明確に書かれている。しかも、若狭は、それを「声」として聞くだけでは満足できない、文字として形として、そのことばを定着させたいとたぶん願っているのだろう。ことばを見たい、ことばが見える通りに世界が存在すると信じて若狭は詩を書いているように感じられる。
 ことばは視覚でとらえられる、と信じて若狭は詩を書いているように感じられる。