農場監督が ピューと口笛を鳴らすと
弟と僕は
鍬(くわ)を肩に担ぎ
農場を後にした。
バスのところにもどりながら
ブロークンの英語で ブロークンのスペイン語で
おしゃべりした
レストランの食事にも
ダンスのチケットにも
稼いだ金をつかう気がしなかった
ひび割れたバスの窓ガラスから
僕は綿花の葉を見た
小さな手がさよなら と合図しているみたいだった。
三月は綿花のために長い列を鍬で掘った
土埃が大気中に舞い
鼻の穴に入ってきた
目にもだ
手の爪の先には黄色の土が
鍬がぼくの影の上を
行ったり来たりして 雑草や
太った毛虫が真っ二つにちょん切られ
ちぢんで
環のようになって
太陽が左側にあって
ぼくの顔を射したとき
汗が いまだに
僕の中にある海が
顎に浮きあがり
ポタっと落ちて 初めて
地面に触れた
自然とは人間が太刀打ちできないものである。そのことを感じる。そして、それを美しいと感じる。自然の非情さが、存在のすべてを美しく感じさせる。
農業は人間をむき出しにする。自然が相手だから、どうしても人間の肉体そのものが自然と直接的に触れてしまう。
「土埃が大気中に舞い/鼻の穴に入ってきた」が強烈だ。自然は単に「触れる」のではない。人間に侵入してくる。その侵入を鼻の穴の粘膜がじかに感じる。直接を通り越して、なんとういかむりやり感じさせられる。そんなものを感じたくはない。しかし感じて、交わって、生きていく。それが農業だ。
こうした繰り返しのなかでつくられる死生観は「無常」へ通じる。人間はやがて鍬でちょん切られた毛虫のように、ちぢんで輪になって、風と一緒に飛んで行くしかない。そうやって自然に、世界に帰っていく。土に触れていると、その還元の感じが直接的に触れてくる。人間も自然の一部だということがよくわかる。
こうしたことは「貧乏」である方がリアルに感じる。機械ではなく、鍬で、鎌で、自然と向き合う。ほとんど手で向き合うというのと同じだ。体全体をつかって自然に帰るのだ。だから、そこで出会う生な肉体が毛虫であっても、その肉体にこころが反応する。それはほとんど肉体そのものの反応といってもいい。
ゲーリー・ソトが自然そのものと肉体で交感しているは、最終連の「海」が如実に語っている。
汗が いまだに
僕の中にある海が
顎に浮きあがり
「僕の中にある海」。
絶句してしまう。綿花畑で働きながらゲーリー・ソトは目の前の大地、渇いた土や毛虫と一緒にいるだけではない。その足は、そこから遠い遠い(たぶん、遠い)海へとつながっている。足が、手が、肉体が海とつながっている。
巨大な、それこそ人間の太刀打ちできない世界そのものが、綿花畑で働くという行為をとおして詩人の肉体のなかで完成している。そこには肉体以外の何の装飾もない。「貧乏」の美しさは、その装飾のなさからくる。素手の肉体の美しさ。肉体を飾るものがあるとすれば汗だけである。肉体を磨くものがあるとすれば労働だけである。
ここから世界がはじまる。その世界をゲーリー・トスは叩いても壊れない堅実なことばにしている。ことばそのものが肉体になっている。