戸台耕二「まぼろしのかなた」 | 詩はどこにあるか

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 戸台耕二「まぼろしのかなた」(「潮流詩派」206 )

 「南京虐殺」への認識の変化を描いている。三島由紀夫が「牡丹」を書いた1955年には、まだ南京虐殺を知る軍関係者が生きていた。南京虐殺をなかったという人はいなかった。そうした事実を踏まえて三島は小説を書いた。

それがいつのころからか
虐殺はなかったことになった
戦争にはルールがあり
そのルールにのっとって殺したのであれば
虐殺とは見なさないというのが否定派の主張だ
さらに中国側は犠牲者三十万人というが
当時南京にはそれほどの人間はいなかったはずだと
数の問題に巧みにすり替えてしまった

 いつでも、どこでも人は問題をすり替える。すり替えることで、問題の視点をずらしてしまう。戸台は、「数字の問題にすり替えてしまった」とすり替えの「技法」をきちんと指摘している。こうした具体的な指摘は大切だ。「否定派」が持ち出してくる「すり替え」のどこが「すり替え」であるかを指摘し、常に出発点に戻る。その繰り返しでしか歴史は継承できない。
 戸台の詩は堅実である。そして堅実なものがもつ美しさがいつも存在している。

あったことをなかったように思わせることはできても
あったことをなかったことにはできない

 憲法記念日のきょう、第九条がなぜ生まれたのか。何があったから第九条が生まれたのか。そのことを思い出したい。
 国際紛争、国際テロ……たしかに時代は動く。激動する。だが時代が変化するからといって、第九条の理念が変わらなければならない理由にはならない。根拠にはならない。理念をどう実現していくか、が問われなければならない。