『渋沢孝輔全詩集』を読む。(3) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 『不意の微風』(1966)。渋沢が自画像を書き始めた、と感じた。

月が出ていれば月を感じ
女がいれば女を感じもする
確かに世界はいつもそこにあって
あいかわらず愛し合い殺し合いしているのだが
おれの中にひとつの狂気が育たぬばかりに
石みたいに世界から拒絶されるのだ (「信じるためにも」122 ページ)

 「世界から拒絶される」と渋沢は書いているが、むしろ渋沢が拒絶しているのだろう。「女がいれば女を感じもする」の「も」。その並列の助詞は何を意味するだろうか。一体感のなさだ。渋沢は女といるとき女がいるということを感じるけれど、女と一緒にいる、おんなと渋沢とが今ここに同時にいるとは感じないのだ。渋沢がいて女「も」いる。だからこそ世界は「ここ」ではなく「そこ」という離れた場所なのだ。

おそらく世界こそすでにひとつの狂気
(略)
信じるためにも
おれはいまこそ世界の狂気に呼びかけねばならぬ (「信じるためにも」123 ページ

 「意識」から世界へと歩みだそうとする渋沢が、ここにいる。

 「三十歳」「人が盲になるとき」は、そうやって世界へ踏み出した渋沢の自画像である。

信じていないから
彼には光なんてものが存在しないのだろう
性格はあいまいだ
意識と行動との通路を探しまわっている
(略)
無責任な男である
自分勝手に世の中を真暗にして
さてそれから
この世は闇だといって嘆いてみせた

 「信じていないから/彼には光なんてものが存在しない」とは存在していると意識しないから彼には光は存在しないという意味だろう。「信じる」とは存在を意識することだ。存在していると意識できたものだけが渋沢にとって存在していることになる。
 これは「信じるためにも」も同じである。
 「信じるためにも/おれはいまこそ世界の狂気に呼びかけねばならぬ」とは存在しているものを存在していると意識するためにも、いまこそ世界の存在のあり方に向けて歩みださなければならない、という意味になる。世界へ向けて「意識と行動との通路」を築かなければならない。
 世界が真暗であるとしたら、それは単に渋沢が世界が真暗であると意識したにすぎない。ほんとうに世界が真暗であるわけではない。もし真暗なら他の人も騒いでいるだろう。ところが他の人は騒いではいない。うろたえてはいない。
 自画像を書くことで渋沢のことばは動き始めた。そう感じた。「三十歳」「人が盲になるとき」につづく作品群も自画像として読むことができる。
 「スパイラル」「パストラル」「像」「五月」など短めの作品がとても美しい。ことばが渋沢の意識のなかにとどまらず、意識を逆に世界の方から見つめなおしているという感じがする。批評が存在する。ユーモアが立ち上がってきている。世界と渋沢の相互交流がある。