高岡修句集『蝶の髪』 | 詩はどこにあるか

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 高岡修句集『蝶の髪』(ジャプラン「かごしま俳句文庫 2」)の作品群は、ことばが強い。情景よりも先にことばが立ち上がってくる。

昼の馬あおい湖底を吐いている

白葱のしろい性器がみえている

肉欲の光(かげ)を出てゆくかたつむり

花の奥ひかり潰れる音がする

寂寥が来て山斧をかなします

枯野着て鶴がとかしている夕日

 ことばが立ち上がってきて、それから「個性」が立ち上がってくる。「高岡修」という人間が立ち上がってくる。
 これはあたりまえのことであり、ことばというものはそういうものでなくてはならないと思う。思うけれど、なぜか少し目障りに感じてしまう。「私は世界をこんなふうに見ている(認識している)」と宣言しているように感じてしまう。世界と一体となった高岡、たとえば、「寂寥が来て山斧をかなします」なら、その斧が高岡なのか、高岡がその斧なのか、という一体感の愉悦ではなく、なんだか世界を世界の外から見ている視線を感じてしまう。存在(描かれている対象)をとおして世界に「なる」という感じではなく、存在をとおして世界を批評している、存在をとおして世界の外へでている、という感じがする。存在を高岡が超越している、存在と高岡が分離している、という感じがする。
 あるいは逆か。
 ある存在と存在が出会い、そこに「一期一会」の世界が生成するというより、高岡の視力(あるいは聴力、さらには精神力、形而上学力?)が存在と存在の出会いを演出し、ことばの力で「一期一会」を力で構成している、といえばいいのだろうか。高岡がいなければありえない出会いが演出されている。高岡が、役者を演出し、ある劇的世界を構成するように、世界を演出している、といえばいいのだろうか。高岡が、世界という舞台を、舞台の外から演出しているという感じがする。

 存在から自己を引き剥がし、厳しい批評の視線で世界をみつめる、というのは精神のありようとしておもしろいし、そこに強烈な個性を感じる。格好いいなあ、と思う。しかし一方で、その格好よさは、俳句とは無縁の私にはなんだか窮屈な感じもする。世界ととけあった、ゆったりした感覚がほしいなあ、と思ってしまう。これは単に私と高岡との「俳句観」が違うということだけのことかもしれないが。

 好きな句3句。

滝となるうしろを秋に盗まれて

稲びかり水鋼鉄のごとく在る

裏の木へ顔かけたまま五十年

 三句目はちょっと高岡らしくないかもしれない。しかし、私は三句目くらいの静けさの方が気持ちがいい。

 俳句の門外漢からの疑問をひとつ。

水仙の情事のあとのうすにごり

 「水仙の」ではなく「水仙や」では、どんな感じなのだろう。「水仙の」ではなく「水仙や」なら、この句が私はもっとも好きな句ということになるが……。