だが、私が本当に好きなのは、そうしたことばの饗宴ではない。「冬の光」のなかの一篇を選ぶとすれば、私は「聖五月」を選ぶ。
照り返しのなかを妻が帰ってくる
ペンキの剥げた金網塀に沿って
角をまがり
ペンキの剥げた金網塀に沿って
角をまがり くりかえしくりかえし
妻が帰ってくる
胸にかかえている紙袋のなかの暗い卵
ストッキングにつつまれた脚
なにもかも透けて
血が あんなにめぐっているのがわかる
どうやってなだめたらいいのだろう
水は風呂桶のへりまでたたえられてふるえる
音消したテレビなのに
チェロ弾きはやっぱりチェロを弾いた
いやだいやだ せめて
生活者のささやかな侮蔑に値すること
もしそうでなければ!
ペンキの剥げた金網塀に沿って
角をまがり
ペンキの剥げた金網塀に沿って
角をまがり くりかえしくりかえし
きみが帰ってくる
この作品の恐怖は最終行の「きみ」にある。この「きみ」とは最初に出てくる妻ではない。山本自身である。そこが、怖い。
「なにもかも透けて」と山本は書くが現実にはたとえば紙袋は透けはしない。透けはしないのに透けて見えるのは想像力の働きである。想像力とは現実にあるものをねじまげて別のものとして見る力である。現実には卵が見えないのに卵を見てしまう。しかも単なる卵ではなく「暗い卵」を見てしまう。
この「暗い卵」は、そして、山本からはけっして見えないものである。紙袋に卵をいれた妻だけが本当はそれが「暗い卵」であると想像することができる。つまり、胸にかかえなければならないほど壊れやすく不安なものを抱え込んだ卵であると想像できるのは妻だけである。
妻が紙袋のなかに暗い卵をもっていると描写した瞬間から、山本は、実は妻になっている。ストッキングにつつんだ脚なのに(これは、すぐ前の紙袋のなかの暗い卵の言い換えである)、そのなかに血がめぐっているのが透けて見えるのではなく、実は、血が透けて見えるからこそストッキングで隠すのだ。暗い卵だからこそ紙袋にいれて隠すのだ。そして、そういう行為をしているのは、妻ではなく、山本である。
この静かな狂気のような悲しみは、実は
ペンキの剥げた金網塀に沿って
角をまがり
ペンキの剥げた金網塀に沿って
角をまがり くりかえしくりかえし
という行から始まっている。
何度も何度もくりかえし角を曲がる姿を見る位置はどこにもない。このくりかえしは、空間(地理)のくりかえしではない。時間のくりかえしてある。きのうも、おとついも、そしてあすも、あさっても、くりかえされる。
時間を共有することで(一緒に暮らすことで)、ほんらい他人である人間、内部がわからない人間の内部が「透けて」みえるように錯覚する。ほんらいある「距離」が消えてしまったように感じる。
しかし、その「距離」は消えなどしない。距離がないと感じれば感じるほど、その裏側で開いて行く。亀裂が深くなっていく。
「ひらいてゆく距離」の絶望。それと重なり合うために、山本は「きみ」になる。自己を「きみ」と呼び、想像力のなかで「妻」になる。そうやってかさなりあったときのみ「ひらいてゆく距離」の「ひらいてゆく」じわじわとした恐怖が現実のものになるからだ。