はじめて読む詩人 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 「現代詩手帖」12月号を読む。(引用はすべて「手帖」から)

 倉本竜治という名前をはじめて知った。「いらだち」。

ぼくが食道癌で死んだ
詩人の詩をよんでいると
もう直ぐ四つになるヒロキが
来てのぞきこむのだ
そして漢字カードで覚えたばかりの
「草」の字に目を輝かすのだ
ワレハクサナリと読み出すのだ
幼い全身で重い引き戸を開けるみたいに
するとぼくはちょっと緊張するのだ
子どもの見つめる空間に
目をすえるのだ
ああやっぱりだ つまずいた
「生きんとす」の箇所だ
そこそこそこでだ父親であるぼくはいらだって
イキと言葉をそえるのだ
それなのにヒロキはまたまたひっかかるのだ

 淡々とした行運びのなかに口語が非常によく響いている。「そこそこそこでだ」という部分など、思わずうなってしまう。口語のリズムが「イキと言葉をそえるのだ」という行のなかでは「声」そのものになってあふれてくる。
 この詩のおもしろさは、その口語のリズムと、口語にもならずにそこに存在する「生きんとす」の重さ、その重さなどいったい何なのと無視して生きている4歳の命ののびやかさの不思議な出会いにある。
 倉本には「生きんとす」の意味はわかる。4歳のヒロキにはわからない。ことばをそえてやっても読むことさえできない。それは単に読むことができないという以上のことである。それは実は4歳のヒロキに対して「生きんとす」と詩人が書いたときの気持ちを倉本が教えられないということを意味する。
 いや、それ以上に、倉本自身にとっても「生きんとす」の意味がわからないということを意味する。もちろん、頭の中でなら理解できる。4歳の子どもが「草」を「くさ」と読む程度になら理解できる。しかし、口語にして、「そこそこそこでだ」というような生々しい感じでは言い表せない何かがある。
 本当の「いらだち」はそこにある。
 4歳のヒロキのつまずきは4歳のヒロキのものであると同時に、倉本自身のつまずきでもあるのだ。

 「幼い全身で重い引き戸を開けるみたいに」の比喩の美しさ、強さは、単にヒロキのありようだけではなく、癌で死んだ詩人の詩集を読む倉本自身の姿でもある。
 比喩はこんなふうにしてつかうのだ、とあらためて思った。比喩の力というものをあらためて感じた。



 内川吉男もはじめて知った。「苺になった少女」。倉本のことば運びと共通するものがある。比喩をとおして非常に自然に自分を超え、対象に重なり、再び自分に帰って来て、その比喩の運動のなかでの精神・感情の動きをしっかりと受け止めようとする。
 こうしたことばの運動があるからこそ、詩は生き続けるのだと思う。