詩はどこにあるか(75) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「11」。対立する概念。

だが おまえの返してよこしたのは忘恩  (28ページ)

 人は人に何を返すことができるか。
 「忘恩」は人間の世界では返すべきものではない。しかし、神の世界では? あるいは神話の世界では? さらには宇宙の運動のなかでは?
 たぶん、「忘恩」の形でしか返せないものがある。「忘恩」によってはじまる世界がある。

 「忘恩」が明らかになるとき、返されたものではなく、返したものが「無」になる。



 「12」。「11」と密接なつながりがある。

俺は蛇というより 大地それじたい
その俺をたばかって 殺すからには
お前が新しい大地にならなければ
お前にそれができるか できるなら
俺は甘んじて殺されてやろう  (31ページ)

 「忘恩」が明らかになるとき、返されたものではなく、返したものが「無」になる――とは、彼が彼自身ではなくなるという意味である。そして、実は、「忘恩」をおしつけた相手の立場にとってかわらなければならない、という意味である。
 価値(意味)の転換は、そして、常に永続的な運動を伴う。

だが これだけは忘れるな
お前が新しい台地になることは
そのうち 古い大地になるだろうこと
古い大地になったお前は 殺されて
新しい大地に譲らねばならない
お前にそれができるか
お前にそれができるか  (31ページ)

 永続的な運動は「無」である。定まった形が「無い」。

 あるいは「無」という現場は、永続する運動を引き起こす場であるというべきか。
 永続する運動の現場としての「無」。
 それは虚無の別名だろうか。
 そうだとするなら――ここに高橋の「詩」がある。三島由紀夫に通じる「無」。ことばの虚無。何事が消えてしまっても存在してしまうことばの美という虚無の軌跡が輝く一瞬としての「詩」、あるいは「美学」。
 だが、それは固定されないのだ。