詩はどこにあるか(64) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「0」の書き出し。作品全体の書き出しに不思議なことばがある。(6ページ)

私たちの隠れたる者たちは 語らない

 私「たち」、者「たち」。複数。ここに高橋の「詩」がある。
 この複数は確固とした存在が幾つも存在するということではない。確固としていないからこそ複数になってしまうのだ。

路上で君と話しているつもりが 彼ら
話している私自身 彼らだったりする  (7ページ)

 「揺らぎ」ではなく、「揺らぎ」と見せかけての入れ替わり。
 「隠れたる者」は常に存在する。「私」と入れ替わりながら存在する。
 ある存在をことばにする。「隠れたる者」をことばにする。すると、それは「私自身」になり、私の目の前から消える。隠れる。そして、姿を消したその姿の向こうに、また新しい「隠れたる者」を浮かび上がらせる。
 この運動には限りがない。「複数」というより「無数」「無限」の運動だ。

 「無数」「無限」に共通することば「無」。――ここに、高橋の「詩」がある、と定義するのは早すぎるだろうか。とりあえず、そう定義することで『語らざる者をして語らしめよ』を読み続けようと思う。