詩はどこにあるか(48) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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寒山(「中国詩人選集5」岩波書店)

「卜択幽居地」を読む。3、4行目。

  猿啼谿霧冷(「さる」は本文はケモノ偏に「暖」のつくり)
  嶽色草門連

入矢義高は「猿は冷ややかに霧の立ちこめる谷あいに叫び、山の色はわたしの住む草ぶきのいおりの門までつづいている」と現代語訳している。
私は、少し不満を持つ。特に3行目。
「猿が叫び、谷の霧が冷ややかになる」、あるいは「猿の叫び声が谷の霧を冷ややかにする」と読みたい。入矢の訳では、谷の霧は最初から冷たい。それではつまらない。猿の声を聞くことによって、今まで意識しなかった霧の冷たさが実感として立ちあらわれてくる――そういう動きにこそ、「詩」は存在するのではないのか。

4行目。「連」を「つづく」と訳したのは単に表現をわかりやすくするためのものかもしれないが、「連なる」の方が私には面白く感じられる。「つらなる」というとき、その奥に「つらぬく」という響きが流れる。(これは私だけの感覚かもしれないが。)そうすると、嶽と門が一気に結びつく。緊密になる。「つづく」では少し間合いが残る。嶽と門との間には隔たりがあるのだけれど、その隔たりを消してしまう(渾然一体としてしまう)動きは「つづく」ではなく「連なる」という気がする。