しかし幸いなことに長く続いた夏の陽射しもようやく翳りを見せてうにやひとでややどかりや小魚たちがめいめいひっそり生きている静かな潮溜まりも薄明薄暗の中に沈みこんでゆくようだった。
この文章の特徴は
( 1)読点「、」がないこと。
( 2)主語が明確ではないこと。
私だけの印象かもしれないが、その二つの特徴のために、文章の出発点とたどりついた先が明確に把握できない。なにか意識がうねうねとねじれながら動いたということと、うねうねと動くだけの時間が経過したということしか印象に残らない。
そして思い返すと、実は「時間が経過した」と私が書いた「時間」こそが「主語」であったということがわかる仕組みになっている。夕暮れの失われていく光――その失われていく光の時間そのもののひっそりとした動きが文頭に明確に提示されているということに気がつく。
そういう仕掛けになっている。
冒頭の文章に限らないが(そして、この作品自体の構造にもなっているのだが)、松浦の文章は坂道を上ったり下りたりするときの人間の歩みに似ている。急な坂道では人は坂道の真ん中をまっすぐには上らない。道を蛇行しながら上る。その方が歩きやすいからである。蛇行するほうが(遠回りするほうが)結果的に楽に坂道を上れる。蛇行しながら坂道を上るとき、私たちは単に目的地を目指しているわけではなく、目的地へ行く肉体そのものとも折り合いをつけながら歩いている。蛇行することで肉体の疲労度を少なくするというふうな折り合いを知らず知らずにこころがけている。
松浦は、そうした肉体の知らず知らずの折り合いのつけかたそのものを描いている。
人は生きている間にいろいろなものと出会い、自分自身を変化させるし、相手も変化させる。それも一種の折り合いである。その過程を、ゆったりと坂を上り下りするテンポで濃密に描いていく。
ここに松浦の「詩」がある。
松浦が描いているのはストーリーではない。主人公は中年の男だが、その中年の(つまり人生を半分くらい歩いてきた男の)、自分自身の肉体との折り合いのつけかたを描いている。
物語にそって空間がねじれ、迷宮に入り込んだような不思議な世界が広がるが、それは同時に彼の生きてきた時間のねじれ、迷宮へ彷徨いこむことである。さまよいながら、ちょうど坂道を蛇行して上ったときのように、上りきってしまった後出発点と到達点が意外と接近していたことを知るように、ある時間と別の時間がすぐとなりあわせであったというようなことに気がつく。そうした時間を発見することが、主人公にとっての、自分の肉体との折り合いのつけかたでもある。
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この作品を読むとき読み落としてはならない「キイワード」は「だんだん」である。繰り返しつかわれているが「実は奥へ行くほどに広がっているずいぶん大きな屋敷らしいことがだんだんわかってきたのだった。」(11ページ)にあるように「だんだんわかってきた」というのが、その基本的なつかいかたである。
主人公はふとたどりついた半島で生活しているうちに「だんだん」と何かがわかってくる。半島の構造がわかってくる。半島で暮らしている人々がわかってくる。そして何よりも自分自身というものがだんだんわかってくる。
そして、このときも、わかってきた何かではなく、「だんだん」という動き――時間そのものが松浦の主題である。「詩」である。
主人公は、半島の曲がりくねった道(地上の道もあれば地下の道もある、建物の内部の道もあれば温泉の流れていく水の道もある)をたどるうちに空間がねじれ、ゆがむのを感じる。遠くにあったものがすぐ近くにあったことを知る。同じように、その道をたどることで、「時間」そのものをねじまげ、ねじりあわせてしまう。遠い過去がすぐ近くにあるというだけではなく、離れていたAとBという時間が実は非常に接近していること、あるいはまったく重なり合っているということにも気がつく。
空間は物理の世界であり、そこには明確な遠近が存在する。しかし時間は物理の世界であると同時に心理(意識)の世界にも属している。心理(意識)の世界には遠近は存在しない。遠いと思えば遠い、近いと思えば近い。
( 1)きょう(今)一昨日のことを思い出す。( 2)きょう(今)10年前のことを思い出す。その( 1)と( 2)の意識において、今と一昨日、今と10年前との遠近はどちらが近く、どちらが遠いかはいえない。一昨日のことよりも10年前のこと方が切実(近い)ということがある。
松浦は、そういう一種の「哲学」の問題を、冒頭に紹介したような読点のない(読点の少ない)文章で、ゆるりと提出する。