ベルグソンにかぎらないが、私がベルグソン、あるいは和辻哲郎を正しく理解しているかどうか(私の読み方を他人が正しいと思うかどうか)は、私には問題ではない。私は私の考え(ことば)を整えたいのであって、ベルグソンや和辻をだれかに紹介したいわけではない。私が紹介しなくても、ほかのひとが「正しく」紹介しているだろう。
「連続」を、ベルグソンは「充足している流出と以降の連続性」と定義したあとで、「充足」を「流れるものを含まない、移行しない」と言い直し、そこから「持続=記憶」と再定義している。このときの「記憶」とは「変化そのものの内的な記憶」である。ここから「内的時間」というものが生まれてくる。
そのあと、こう書いている。
われわれの内的生の各瞬間には、われわれの身体の、そしてそれと「同時」の回りの全物質の瞬間が、対応している。
ここに「身体」ということばが出てくるので、私は安心する。私は「身体」ではなく「肉体」ということばの方を好むのだが。
それから、ベルグソンのことばは、こうつづく。
そのとき、この物質はわれわれの意識した持続性の性質をいくぶん帯びているように見える。われわれはこの持続をだんだん物質世界の全体に広げて行く。というのはこの持続をわれわれの身体の直接の近傍に限るいかなる理由もわれわれは認めないからである。宇宙はわれわれにはただ一つの全体を形成しているように見える。
ここから私は、「宇宙」に存在するのは「私という肉体」だけ、という考えが生まれる。いや、このベルグソンの考えは、「宇宙」に存在するのは「私という肉体」だけ、という考えを支えてくれると感じる。「意識の持続性」(意識の延長線上/意識のとどく限り)が「宇宙」である。「宇宙」は「意識の持続性」として「一つ」である。
「肉体」があれば「意識」がある。そして「意識」は「肉体」とは切り離しては存在し得ない。「肉体=意識」ならば「意識=肉体」である。「イコール」とは「即」である。
持続する実在について人はそこに意識を導入することなしには語り得ない
とベルグソンは書いているが、この持続から「語る」という一連のことばの運動を私は、語るということは意識を持続させることであり、その持続の中に「実在」が出現すると言いなおすのである。
実存的な時間は知覚された体験であり、それは考えられた時間であるが、考えるということは「ことば」なしにはありえない。「語る」ことは体験を知覚することであり、それは時間を実在させることである。
存在するのはわれわれ各人の持続だけであろう
とベルグソンは書くのだが、これは私にとっては「存在するのは私の持続だけである」という意味になる。「他人の持続」は「私が想定する持続」にほかならない。それが「他人の持続」と同一であるかどうかは判断のしようがない。
こんなことはいくら書いても「無意味」かもしれない。
私は、ほんとうは、こういう抽象的なことではなく、次のことを書きたいのだ。
ベルグソンは、こう書いている。
意識は、ひからびて空間となった時間に生き生きとした持続を再び吹き入れるのである。
私は、ここに「吹き入れる」という動詞がつかわれていることに、非常に刺戟を受ける。「吹き入れる」というのは「肉体」の動きである。たとえば、風船に空気を「吹き入れる」。人工呼吸で他人の肺に息を「吹き入れる」。人間の、肉体の動きが、ここにある。何かをするとき、自分以外のものに働きかけるとき、そこには肉体が動く。
「意識」も「肉体」である。だから、「肉体」の動きをまねするのである。
ベルグソンは、こうも書いている。
実在するものとしてわれわれに提供されるすべてのものに対して、知覚されるという特性あるいは知覚可能という特性をわれわれが要求するとしても、驚く人はいないであろう。
「意識」は実在するか。それは「吹き込む」という「肉体」の運動がことばになって表現されるとき、たしかに実在すると、私は言いたい。では、「意識」が肉体」のどこにあるか、という問題があるかもしれない。どこだっていい。脳のなかでも足の裏でもいい。しかし「吹き込む」という比喩がつかわれるとき、それは脳でも足の裏でもなく、たとえば口であり、手の動きであり、肺の動きである。そういう「ことば」と「肉体」の「連続=結合」のなかにある。
**********************************************************************
★「詩はどこにあるか」オンライン講座★
メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。
★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com
また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571
*
オンデマンドで以下の本を発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com