阪本順治監督「せかいのおきく」(★★) | 詩はどこにあるか

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阪本順治監督「せかいのおきく」(★★)(キノシネマ天神、スクリーン3)

監督 阪本順治 出演 黒木華、寛一郎、池松壮亮

 「せかいのおきく」を私は「世界の記憶」と思い込んでいた。舞台は江戸時代。街で糞尿を買って、農家に売る男と、武士の娘の恋と聞いて、てっきり「日本の貴重な歴史(記憶)=循環型の社会」が背景として描かれるのだと思っていた。
 そんなことを思うのも。
 私には、寛一郎、池松壮亮のようにそれを商売(生業)としていたわけではないが、糞尿を担いだ記憶があるからだ。山の畑まで運び、糞尿を撒くという仕事をしたことがあるからだ。私は病弱だったが、貧乏だったから、そういう仕事は日常だった。鍬で畑を耕したり、刈り取った稲を担いだり。
 小学生のころから、そういう仕事をしながら、寛一郎のように、「学問(字を覚え、読み書きがしたい)」のようなものに憧れていた。テレビで見た「海外特派員」にあこがれ、世界の広さを知りたいと願っていた。家が貧乏だったから、これは、ほんとうに夢の夢だったのだけれど、いま生きている世界とは違う世界を知りたい(糞尿を担いで畑仕事をする以外のことをしたい)と願っていた。
 だからというか。
 黒木華の演じる主人公の気持ちとは関係なく、映画を見ながら、いろいろ思うことがあった。
 私は、エルマノ・オルミ監督の「木靴の樹」も大好きだが、それは、主人公(ミネク)のおかれた状況に自分を重ねてしまうからだった。「学問」というのは、日常とは違う。そして、そこには何か、いままで知らない世界を知る手がかりがある。その未知へのあこがれと、その世界に近づくための困難さ。
 それは江戸時代という遠い歴史の問題ではなく、私が小学生のころは、まだそのままの世界だった。江戸時代は、いまから思う「昭和」よりも、「平成」よりも、もっと「地続き」だった。
 で、ね。
 糞尿を買って、それを売って生活するたくましさは、何といえばいいのか、私にはとても美しく見えた。水や風の動きも、とても気持ちがよかった。私は、こういう世界を知っているということが、不思議な喜びとして広がってくる。
 声を失った黒木華が、こどもたちにせがまれて、寺の寺子屋(?)で文字を教えることを決意するシーンなんかも、とっても好き。自分の「役割」を「学問」と結びつけて、それを大切にするという感じが、しずかにつたわってくる。こどものときにいだいた「あこがれ」がよみがえってくる。
 勉強をする、そうすると世界が変わってくる。このことが、私はとても好きなのだ。自分の世界を変えるために、もっと何かを知りたい。何かを考えたい。考えるためには「学問」が必要なのだ。
 ちょっと映画から離れた感想かもしれないけれど、そういうことが「世界の記憶」として、どこかに生きていると思う。
 そういうことを静かに実感させてくれる映画なのだけれど。
 うーん。
 糞尿を汲む杓が、何だか頑丈すぎる。金属でできているように見えてしまう。さらに、池松壮亮のセリフに「仕事をさぼって」というなものがある。私はよく知らないのだが、「サボタージュ」とか「サボ(木靴)」ということばから派生していると読んだ記憶が、かすかにある。外来語、である。それを江戸の末期とはいえ、糞尿を担いで生きている若者が知っているとは思えない。(偏見かもしれないが。)「青春している(だったかな?)」という言い回しにもびっくりした。「青春」ということば自体は中国の古典にあると思うが、それがはたして学問を知らない若者に浸透しているかどうか、それが疑問。
 「せかい(世界)」も同じだなあ。江戸時代は、ふつうは「世の中」、あるいは「しゃば」と言ったのではないだろうか。映画のタイトルを「世界の記憶」と勘違いしたのも、ひとのなまえと「せかい」が結びつくとは、江戸時代を背景にした社会では、私は想像できなかったせいもある。私自身の記憶をさかのぼってみても、「世界」ということばは、わりと新しい。小学5、6年生のころ「世界地図」というものを知って「世界」ということばが自分のものになった気がする。江戸時代、いったい何人が「世界」ということばを知っていたかなあ。
 美しい映画なのだけれど、「ことば」への疑問がぬぐいきれず(学問というのは、ことばの世界がと思うので)、かなり興ざめしてしまった。「江戸時代の循環型生活」というのも、「お飾りの背景」(知的装飾)に見えてしまう。これは、実際に糞尿を担いで野良仕事をした人間には、なんというか、「侮辱された」と感じるものに変わってしまうかもしれない。糞尿を担いだこともない人、何も知らない人が、そのことを知っているかのように描いて利用しているだけという感じてしまうかもしれない。
 ことばの問題がなければ、★4個の作品。

 

 

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