高柳誠『輾転反側する鱏たちへの挽歌のために』 | 詩はどこにあるか

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 高柳誠『輾転反側する鱏たちへの挽歌のために』を開いて、私は、困惑する。行分け詩、いわゆるふつうの詩のスタイルなのだが、各行が長く、ほとんど同じである。同じ長さの行でそろえられた詩もある。標題になっている作品の冒頭。

 

輾転反側する?たちへの挽歌のために
まずは斬首された蛸が用意されるべきであろう
慟哭に沈潜する深海魚の群れに一錠の光がさして
海溝はおのれの内なる深淵の詭計に耐ええずに
狂い咲きのサンゴを沈黙の岸辺に投げつける
析出し続ける半島の白亜紀になずむ堆積から
喪われた時の骨格がしずかに浮き上がる
両側にかしずく白鳥の翼をもつ双生児たち
その影に怯える夥しい魚卵の鮮明な痕跡は
瀝青の内部に隠された生命進化の遍歴譚に
自らのありうべき肖像を加えようと企てる

 

  最初の方こそ一行の長さが乱れているが、それが少しずつ調子をあわせ、同じ長さになる。これは、ある意味では読みにくい(リズムを強制される)が、その読みにくさが、なんといえばいいのか、船酔いのような愉悦を誘う。苦しいのだけれど、不思議な誘惑がある。
 そして、そう書いた瞬間に思うのだが。
 これは高柳が企てたものなのか、それともことばが高柳をそそのかして、そうさせているのか。
 そもそも、この詩集は何を狙って書かれたものなのか。もちろん、詩人は最初からすべての計画を立てて、それにあわせてことばを動かしていくわけではないだろうけれど、詩人を最初にこの一群の作品に駆り立てたものは何なのか。なぜ、高柳は、短文スタイルではなくて行分けにしたのか。
 こういうことは、真剣に、あるいは厳密に、「調査」してはいけない。直感で、何かをいわなければならない。
 この詩で(その書き出しで)印象に残るのは、各行の長さである。これと、視覚の印象。その視覚の印象には感じが多いということも加わる。ことばのスピードが漢字によって加速し、そこには何かが隠されているという感じがする。何が隠されているか。音である。
 漢字は表意文字。意味を持っている。鱏はエイと読むのか、カジキと読むのか。どちらたぶんエイと読ませるだと思うが、かわらかなくても、魚であるということがわかる。そして、それを読んでみたい(音にしてみたい)という気持ちにも誘い出す。
 それは鱏という一文字よりも、一行全体として、何か「音」を誘ってくる仕組みをもっている。
 一行目。

はんてんめんそくするえいたちへのばんかのために

 「ん」の音が繰り返し登場し、一行を短く感じさせる。二行目は「された」「される」「まず」「ざんしゅ」というさ行濁音、それは「された」「される」のさ行とも呼応する。三行目は「ちんせん」「しんかい」、「ちんせん」「いちじょう」「さして」の「ち」、さ行、ざ行の交錯。
 この「音」は、もしかすると、実際に「声」にだしたときの音ではないかもしれない。少なくとも、私は声に出して音を確認するわけではなく、耳がかってに、いや、喉や舌がかってに肉体の中につくりだし響かせる音であって、それが積み重なって響くのである。
 私は「交響曲」の楽譜は読むことができないが、高柳の今回の詩集は、肉体を総動員してことばの「音(その音楽)」を聞くための詩でできているのかもしれない。

 そういえば。
 というのは変な理屈だけれど。楽譜の左右の長さはみんな一定だよね。そのなかで音が上下に動くと同時に、音の長短(音符の長さ)が変化し、全体を立体的にする。
 高柳の「音」の響きあいは「和音」、その繰り返しの「間隔」は「リズムの変化」(こう言っていいのかな?)を表現しているかもしれない。
 音楽(交響曲)に意味がないように(あるのかもしれないが)、詩も、意味がなくてもいい。音とリズムがあって、それに肉体ひたすとき、肉体のなかからことば(声)を発するときの喜びが沸き上がってくれば、それでいい、ということがあってもいいと思う。
 この表題作は、こう締めくくられている。

 

アルゴマン花崗岩の秘匿された喜びの歌に
始原の闇の欠片が雲母となって紛れ込んで
造山運動の底に眠る通奏低音をゆり起こす
大地の亀裂から鮮烈な熱泉が吹き上がり
世界は眠たげな黄昏一色に染められる
夏の両腕に抱き取られた夕景を受肉しながら


 「秘匿された喜びの歌」がこの詩にはあり、それは「通奏低音」である。「雲母」には「きらら」とルビがふってあるのだが、それは「欠片」を「かけら」と読ませるためかもしれない、というようなことも、私は思うのだった。

 


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