18歳のイタリア人と読む三木清。「感傷について」。
これは、とてもむずかしかった。
「感傷」と「感情」はどう違うか。この定義が、まずむずかしい。三木清の文章を読む前に書いた作文では「感傷」を「感情」とほとんど同じ意味でつかっていた。「感傷」にぴったりあうイタリア語はないようだ。
遠回りになるが、まず季節の印象を聴いてみた。春はどんな気持ち?何をする? 明るくなる。いちばん好き。 夏は? 夏休み。楽しい。 秋は? 落ち葉が散る。静か。秋も好き。 冬は? 寒いから、閉じこもる。
感情には、どんなものがある? 愛とか、憎しみとか、悲しみとか。
激しい感情、激しい憎しみ、激しい怒り、激しい悲しみ。情熱的な愛情。活発に動くのが感情。
感傷は、激しい感傷という言い方はしない。激しくない。静かな印象がある。だから、季節で言うと秋がいちばん感傷的な季節と、日本では言われる。
傷には、重傷と軽傷がある。区別ができるかな? 聞いたことがない。
軽傷は、たとえばナイフで指先を切ったとき。血は出るが、そのままにしておいても治る。重傷は、病院へ行って手当てを受けなければならないとき。
感傷は「感情」が「傷ついた」状態。傷だけれど、軽傷の傷。ほうっておいても治るもの。
三木清は、感情によって人間の行動は活発になるが、感傷の場合は静止するということろからことばを動かし始めている。そして、思索とは(思想とは)活動的でなくてはならないという点へとことばを動かしていく。