「現代詩手帖」12月号(18) | 詩はどこにあるか

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「現代詩手帖」12月号(18)(思潮社、2022年12月1日発行)

 川満信一「在るものの不安」。

いのち、地上の、地下の、空中の命
滔々と流れる無限の大河
休むことのない動詞よ
重さを想えば地球を背負うように
瞑想すれば炎の色に躍動するもの

 私は困ってしまった。「休むことのない動詞よ」とあるが、「動詞」が見つからない。いや、「流れる」「休む」「想う」「背負う」「瞑想する」「躍動する」と存在する(在る)が、「動いている」が感じられない。「地球を背負う」とあるが、それが「重い/重さ」に結びつかない。「瞑想する」から「躍動する」への変化は、ほんとうならブラックホールが爆発するようなものだが、まったく「躍動する」が感じられない。そこに「在る」のは「動詞」と名付けられた「名詞」のような感じがする。
 これは、「わざと」?

躍動するいのちの 炎の大河を跨ぎ
異星の峰へワープせよ ランボー!

 ことばが「頭」のなかできらめいている。しかし、それは「在る(状態)」のであって、「動き(動詞)」ではない。「状態」をあらわす「動詞」というのもあるのだけれど、それは「休むことのない」とは別の「動詞」だと思う。

 高良勉「フボー御嶽」。

男の人は
特に島外の人は
入ってはいけない
タブーが生きている
フボー御嶽

 高良は、したがって「一度も入ったことが無い」と書いている。高良にとっては、肉体的には「存在しない」。しかし、意識的には「存在する」、その場所。その「意識的存在」を「具体的存在」に変えるのは何か。
 高良は、他人の撮影した「写真」を利用する。「写真」に映し出された「場」。「白装束の神女たち」が「神祀りを行っている」。
 これも「動詞」ではないなあ、と私は感じる。「動き」が「状態」として、固定されている。肉体が動いていない。
 「入ってはいけない」と言われたとき、高良の「肉体」のなかで、どんな運動が起きたのか。「してはいけない」と言われたとき、「肉体」にはそれを「したい」という欲望も生まれるだろう。それをどうやって「してはいけない」と言い聞かせたのか。どんな葛藤があったのか。なかったのか。
 高良は「わざと」それを書かなかったのか。
 神女たちを

 マイヌシュラヤー 舞いの美しさよ

 と書かれても、それがどんなふうに美しいか、私にはわからない。美しさに触れたとき、高良の「肉体」がどう動いたのか、それが知りたい。「マイヌシュラヤー 舞いの美しさよ」ということばが、注釈にあるように比嘉康雄『神々の原郷 久高島』のことばなら、なお、そう思う。
 高良は、ここでは、自分のことばではなく、単に他人のことばを伝達しているにすぎない。

 松尾真由美「凍える雛のひときわのざわめきから」は、何が書いてあるかわからないが、だかこそ「信じてもいい」。松尾には信じているものがある。それはタイトルの「凍える雛のひときわのざわめきから」にあらわれている。
 「ひな」と「ひときわ」の音のつながり。「ひときわ」と「ざわめき」の音のつながり。ことばをつないでいく「の」の音の脈絡。
 それは、書き出しの一行にもある。

受け入れてもらえないかもしれなかった。りり、りらら。

 「受け入れてもらえないかもしれなかった」のなかにある「ら行」の音。「し」の音が強い「い」。それが結びつき「り」という音にかわる。ここから「る/ろ」ではなく、明るい「ら」へ転換するのは、松尾が、基本的に明るい音のことばを優先させる「肉体/声帯/口蓋/のど」を持っているからだろう。「ら」のなかの「あ」を引き継いで「たどたどしい」と動いていく。松尾の「ら行」は「R」ではなく「L」で発音されるのかもしれない。

とおいほど反論できない分かりきった蜃気楼を飲みこんで、みれどしら。

 この「みれど」は音階の「ミレド」だけではなく「飲みこんでみれど」とつながる「動詞」のようでもある。そのとき「みれど」の「ど」は「とおいほど」の「ど」につながっている。
 途中に「らそふぁみれららら」「らしどれみふぁみれ」と「ふぁ」という音がある。「遠いほど」ではなく「おおいほど」と書くのだったら、「とほいほど」と書いた方がもっと音が響きあったかもしれない。
 「わざと」を押し通し、「わざわざ」に変えてしまうのが松尾の詩であると仮定しての話だが。

 

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