高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」 | 詩はどこにあるか

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高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」(文藝春秋、2022年09月号)

 高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」は第167回芥川賞受賞作。
 読み始めてわりとすぐ近くに、次の文章が出てくる。(287ページ)

 藤さんがにやにやしながら声をかけてくる。二谷は曖昧に、と自分では思っている速度で頷き返すが、藤さんからするとそれは首を縦に振っている同意の仕草であって、曖昧に濁した感じはつたわっていないらしく、「だよなー」とさらに強めの声を出され、二谷は今度こそまっすぐに強く頷かされた。

 あ、うまないなあ。いいなあ、と思わず声を上げる。二人の人間がいて、自分の意図がつたわらない。そして、押し切られる。その変化がおもしろい。特に「藤さんからするとそれは首を縦に振っている同意の仕草であって」という言い直し(?)というか、客観化が鋭い。
 これは楽しみだなあ。
 ところが、289ページの、藤が芦川の飲みかけのペットボトルからお茶を飲み、それを芦川につげる。芦川は、そのペットボトルに口をつけ、感想を言い合うという部分の「しつこさ」で私は、なんともいえない恐怖に襲われた。
 この作者は「しつこい」だけなんだ。
 そして、その「しつこさ」は、あることがらを一点から書くというのではなく、最初に引用した部分に特徴があらわれているが、第二の視点をからめて書くことにある。一人称で書かず、常に別の視点での表現をからめてくる。
 これは、おもしろいと言えばおもしろいといえばおもしろいのかもしれないが、私はぎょっとする。二つの視点が、なんというか「共犯」というよりも、「いじめ」のように相手の反応をみながら変わっていく。まあ、新しさがそこにあると言えるのかもしれないけれど、「いじめ」を主導するのでもなく、けれども加担する感覚といえばいいのか。ついていけない。
 自分がどう見られているかだけを気にして動いている。
 だから「おいしいごはん」が一回も出てこない。「料理」は、食べている人に対して「おいしいでしょう」と確認を求めてこない。確認を求めるのは人間である。「私のことをどう思っている?」ということを確かめるために「食べる」というのは、私の感覚から言えば気が狂っている。
 どの「食べる」シーンも、ただただ「わっ、まずそう」という感じしかない。なぜか。あらゆる食べ物が「人事(いじめ)」の調味料で、こってりしている。食べずに、いじめるなら、いじめることに徹底しろよ。これでは「食べる」のはだれかを「いじめる」ため、ということになってしまう。
 なにが「おいしいごはんが食べられますように」だ。