三木清「人生論ノート」の読み方。(習慣について、から) | 詩はどこにあるか

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修養(する)ということば、定義できます?
三木清の「人生論ノート」の「習慣について」のなかに修養ということばが出てくる。(全集、228ページ)
もちろん18歳のイタリア人は、その意味を知らない。
どうするか。
修養、ということばが出てきた文章を丁寧に読んでいく。
そのことばは一緒につかわれたことばは何か。
一緒につかわれていることばは、また別のことばといっしょにつかわれている。
これを、因数分解をするみたいに、組み合わせたり、ときほぐしたり。
そうこうするうちに、ちゃんと「道徳」と結びつけることができる。
大感激してしまった。
授業のあと、別の先生に、18歳の青年が、どうやって「修養」を理解したか、話さずにはいられなかった。
正直な話、辞書をつかわず、書かれていることばだけを手がかりに、意味を把握するというのは、日本人にもむずかしい。
でも、それをやってしまう。
*
きょうやったのは、まず前回の復習。
「習慣について」の最初の段落を読み返す。
形、が何回も出てくる。
あらゆる生命あるものは形をもっている
生命とは形である
習慣はそれによって行為に形ができてくる
習慣は単に空間的な形ではない
空間的な形は死んだもの
習慣はこれに反して生きた形
弁証法的な形である
生命的な形ができてくる
形をつくるという生命に内的な本質的な作用に属している
ここから、
生命=形(生きた形)
行為=形(弁証法的形)
ならば、
生命=行為(習慣)=弁証法=「形をつくる」
言い直せば、
習慣(人間の行為)は、人間(命)の形をつくること
それは空間的であるだけではなく、時間的なこと。生きること。
これを、まずしっかり理解する。記憶する。
 
つぎに、三木清が「形をつくる」というような表現を、どういうときにつかっているかを探す。
第一段落には書いていないが、「生きる=形をつくる」は、結局「道徳」をつくる(徳を身につけること)というのがわかる。
 
「修養」が登場する部分には「つくる」に関係することばとして、「技術」が出てくる。
修養というものはかような技術である
「技術」をつかった文章に
意識的に技術的にするところに道徳がある
すべての道徳には技術的なものがある
ここで道徳と技術(つくる)が結びつく。
意識的に技術を身につけるように、道徳を意識の技術として身につける。
この技術をみにつける過程が「修養」。
このための「訓練(練習)」のようなものが「修養」。
 
これが「修養」の定義(三木清の定義)。

こういう論理を18歳のイタリア人が展開する。
びっくりするでしょ?
私は、そのときどき、少しずつヒントを出すが、考えるのはあくまて18歳の青年。