谷川俊太郎『となりの谷川俊太郎』(2) | 詩はどこにあるか

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谷川俊太郎『となりの谷川俊太郎』(2)(ポエムピース、2022年07月16日発行)

 「かなしみ」という作品がある。『二十億光年の孤独』のなかの一篇。私はかつて「谷川俊太郎の10篇』という「アンソロジー」をつくったことがある。(いま、どこにあるか、わからない。)「鉄腕アトム」「カッパ」「父の死」というのは絶対に譲れない三篇。あとは、その日の気分によって選ぶものが違うだろうなあ、と思う。しかし、あと一篇、「かなしみ」も外したくないなあ、と思う。

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった

 青年というよりも、少年という感じ。しかし、幼い少年ではなく、思春期の少年。
 でも、どうして、そういう印象を持つのかなあ。
 たぶん、「かなしみ」と言っても、「おとし物」くらいのかなしみ。成長すると、もっとおおきな悲しみがある。と、言っていいかどうかわからないが、なんとなく、そう思う。それは、私が過去の「おとし物」を思い出し、いま、悲しくなることがないからだ。
 だからこそ、ここに書かれていることが、美しい、真実だとも思う。
 特に、一行目が「美しい」し、谷川にしか書けない「真実」が書かれている、と思う。

 ところで、この詩集には、ときどき歌人の枡野浩一の「つぶやきコラム」というのがついている。一口感想、かな。
 枡野も一行目に注目している。私とは、ちょっと注目の仕方が違う。枡野のコラムを全行引用する。

おとし物をよくするから、遺失物係にもよくお世話になる。なくしたものは、みつからない。なくしたものに似たものならある。《青い空の波の音が聞こえるあたり》は、空のようでもあり海のようでもある。手がかりのない広い世界で何かを探し続ける覚束なさこそが、生きる実感に思えてくる。

 読んだ瞬間、私は、非常に違和感を覚えた。「あれっ」と声に出してしまった。そして、谷川の詩を読み直してしまった。同じ書き出しの一行に注目しているのだが、注目のポイントが私とはぜんぜん違う。そして、私が、思わず「あれっ」と声に出してしまったのは、「あれっ、私が読み違えた?」とびっくりしたからである。もう一度読み返したのも、そのためである。
 でも、私は間違っていなかった。枡野の引用が間違っているというのではないが、不十分だ。不完全だ。谷川は、こう書いている。

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに

 「あの」がある。枡野の引用には「あの」がない。行末の「に」も枡野は省略している。文字数の制限があり、省略したのかもしれないと思ったが、どうもそうではない。もっと長い「つぶやき」があるから。
 枡野は「あの」には「意味」がないと思ったのだろう。
 でも、私にとっては「あの」は「意味」がある。「意味」のほかにも、大切な働きをしていると思う。
 「あの」というのは、「ここ(近く)」「そこ(少し離れている)」ではなく「あこ(遠い)」に通じる。「青い空」だから、「遠い」。そこは「空の波の音」が聞こえるくらいだから、ちょっと「空想的」という意味でも「遠い」。
 でも、「あの」には、もう少し違った使い方がある。
 「このまえ食べた、あのカレーおいしかったね、また食べにいこうか」
 「あ、駅前のあのカレー屋?」
 こういう会話のときの「あの」は、会話しているひとの間で、カレー屋が「共通認識」としてある。ふたりとも知っている。だから「あのカレー(屋)」になる。
 それと同じように、

あの青い空

 という書き出しを読んだとき、私には、谷川が思い浮かべている空と同じものであるとはいえないけれど、なんとなく、一緒に見たことがある(あるいは、いま一緒に見ている)という感じがする。「あの」が私と谷川を結びつける。
 それは、それにつづく「青い空の波の音が聞こえる」という変なことば、空なの? 海なの?という疑問を消してしまう、強烈な「結びつき」だ。
 「青い空の波の音が聞こえるあたり」では、「結びつき」が生まれない。谷川少年がかってに「夢想」しているだけになる。
 引用するとき、「あの」を省略してほしくないなあ、と思う。
 それに。
 この「あの」があるから、「あたりに」がとても耳になじみやすい。「あ」の音が繰り返される。「あ」の「あ」おい波の音が聞こえる「あ」たりに。私なら「あの青い空の波の音が聞こえるあのあたりに」と「あの」を繰り返してしまうかもしれない。でも、そうすると、ちょっと音がうるさくなるというか、「あ」の音が多すぎる。「空」「波」のなかにも母音の「あ」があるからね。それに「あの」のなかの「の」のなかの「お」という母音の隠れ具合とも考えると、「あの青い空の波の音が聞こえるあたり」がいちばん美しいね。
 「音」のついでにいうと、二行目も「あ」と「お」の響きが交錯する。「し」という新しい音がくわわって、三行目に「し」が繰り返されるのも、とても自然。
 もっとも、こういう「音(音楽)」の問題は、ひとそれぞれの「好み」が大きく影響するから、いちがいには言えない。
 脱線しすぎたかも。
 脱線ついでにいえば、谷川が書いているのは「おとし物」であって、「忘れ物」ではない。「なくし物」でもない。これも、いいなあ、と感じる。「おとし物」は自分から完全に切り離されてしまった感じ。「忘れ物」なら、家に忘れた場合は、家に帰れば「ある」。「なくし物」は微妙。「なくす」よりも「落とす」の方が私には「肉体的」な切断感、痛みがあって、感覚的にしっくりくる。枡のは「なくしもの」に重点を置いているが、私の場合、とくに少年時代を思い出すと「なくし物」という意識はほとんどない。「おとし物」しかない。(忘れ物、はある。)
 二連目についても少し書いておく。
 二連目では「遺失物係の前に立ったら」がとてもいい。大好き。(変な感想かも。)
 最初に、私はこの詩の主人公を「少年」と書いたが、「少年」にとって「遺失物係」というのは、ちょっといかめしい。「遺失物」と漢字のテストで出たら「少年」には書けないかもしれない。ちょっと背伸びした感じが、「かなしみ」にぴったりくる。(「昼下がりの情事」のオードリー・ヘップバーンの背伸びした悲しみ--悲しみには背伸びが似合う。)
 それに「遺失物係の前に立ったら」が、ほんとうに美しい。こういうとき「立ったら」と、書ける? 遺失物係へ「行ったら」(行って、問い合わせたら)と書いてしまいそう。「立ったら」には、何か、教室で叱られて、「立っていなさい」と言われるような響きもある。叱られている感じ。
 それに。「係」にも母音「あ」があるが「立ったら」にも「あ」だらけ。それが「悲しくなってしまった」と響きあう。
 こういう「音楽」は「作為」ではむずかしい。谷川は、根っからの「耳の詩人」なのだと思う。