エマニュエル・クルーコル監督「アプローズ、アプローズ!囚人たちの大舞台」(★★★) | 詩はどこにあるか

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エマニュエル・クルーコル監督「アプローズ、アプローズ!囚人たちの大舞台」(★★★)(2022年08月07日、KBCシネマ、スクリーン2)

監督 エマニュエル・クルーコル 出演 カド・メラッド、マリナ・ハンズ、ロラン・ストッカー

 ベケットの「ゴドーを待ちながら」を囚人が演じる。「待っているだけ」という状況が囚人の状況と重なる。そこから、ふいに「現実」が噴出してくる。それをそのまま舞台に生かす、という演出方法で演劇そのものは大成功を収める。
 映画は、その成功までの過程を手短に紹介する。そして、「それ以後」をていねいに描写していく。これがなかなかおもしろい。芝居の中に、隠れていた現実(意識できなかった現実)がことばとして動き始めるとき、そのことばを語った役者たちの現実はどうなるのか。たとえば芝居の上演後、刑務所へ帰って来た囚人たちは、持ち物検査や身体検査を受ける。それは現実? それとも「芝居」(虚構)の一部? もし、それが絶対に隠すことのできない現実だとすれば、それをことばにするとどうなる? ベケットは、もう助けてくれない。つまり、自分のことばを探し、自分で語らないといけない。どう語ることができるか。
 このむずかしい問題を、囚人たちは、とてもみごとに解決して見せる。
 語らないのである。最終公演の直前、「ゴドーを待ちながら」を演じた五人は、逃げ出してしまう。「現実」の世界へ「隠れてしまう」。声を出せば、見つかり、刑務所に戻される。もちろん、再び逮捕されるかもしれないという「不安」はあるが、それよりも求めていた「現実」のなかに隠れてしまう。その「現実」がどんなものか、彼らが語ることはないから、それが何なのか、私にはわからない。ただ、事実として、そのことが伝えられる。
 ことばにしてはいけないことがあるのをことばにしたのが「ゴドーを待ちながら」だとすれば、ことばにしてはいけないことをことばにしないまま生きているのが、逃亡した五人の囚人たちである。
 このことに、芝居にかかわった人間は、どう向き合うことができるか。五人を演出した演出家(ほんとうは役者、「ゴドー」を演じたこともある)は、どうことばにすることができるか。それは、ほんとうはことばにしてはいけないことかもしれない。しかし、人間だからことばにしてしまう。それがクライマックスなのだが。
 このクライマックス寸前の、二、三分の描写がてともおもしろい。ここだけなら★10個をつけたいくらいの、わくわく、どきどき、はらはら、なのである。五人が逃亡したことを知った演出家は、五人を探し回る。上演開始まで20分。劇場内を探し、街を探し、鉄道(地下鉄)の駅にまで行く。ひとりで走り回る。この間、ひとこともしゃべらない。いや、「五人を見なかったか」というようなことは訪ねるが、ほかはことばにならない。ことばは彼の肉体の中で動き回っている。ことばは、それが自分の声なのに、聞き取れないくらいに錯綜しているだろう。つまり、聞こえすぎて、わかる必要がないくらい明確になる。
 あ、この瞬間こそが、「ゴドー」の舞台なのだ。「ゴドーの登場人物」は、彼ら自身の声が「わかりすぎる」。わかりすぎて、わからなくなる。他人に説明のしようがない。それがわかりすぎるということだ。
 だからね、映画は、ここで、中途半端のまま終れば、大傑作になったと思う。
 でもね、映画だから「結末」が必要になる。「結末」に本物のベケットの反応まで「引用」してしまう。しようがないといえばしようがないが、それでは「ベケットの反応」は明確になることで、逆に存在しなくなってしまう。
 あ、何を書いているか、たぶん、誰にもわからない文章になっていると思う。
 それでいいのだと思う。
 私はこれから「ゴドーを待ちながら」を読み返すことにする。