岡井隆『あばな』 | 詩はどこにあるか

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岡井隆『あばな』(砂子屋書房、2022年07月10日発行)

 岡井隆『あばな』は遺稿歌集。「あばな」は「阿婆世」と書く。

ああこんなことつてあるか死はこちらむいててほしい阿婆世といへど

 という歌に出てくる。「阿婆世」を私は「あばよ」と読んでしまうが、それは死と向き合っている、死んでいく人間の声として聞こえるからである。
 この歌だけでは、何が書いてあるかわかりにくいが、この歌の前には、この歌がある。

死がうしろ姿でそこにゐるむかう向きだつてことうしろ姿だ

 これは、すごいなあ、と思う。
 死んだことがないからわからないが、よく「お迎えがくる」という。「お迎え」というからには、向こうからだれかが岡井のところへやってくる。そう想像する。しかし、岡井はそうではない、という。「お迎え」なら、当然、岡井の方を向いているはずなのに、その誰かは岡井の方を向いていない。
 死は「お迎え」にくるのではなく、岡井を知らない場所へつれていくのである。それがどこかも知られず、「ついてこい」と背中で岡井を導いていく。
 「うしろ姿」と書いて、「むかう向き」と書いて、もう一度「うしろ姿」と書いている。だれもこんなことを書いていない(言っていない)から、自分のいいたいことをなんとしても正確に伝えたいという「欲望」(聞いてほしい)が、ここにこもっている。
 そのうえで

ああこんなことつてあるか

 と嘆く。しかも、口語で嘆く。
 私は、この岡井の、露骨な口語の響きが大好きである。
 そして、こんなことを遺稿歌集の感想として書いていいかどうかわからないのだが、思ったことなので書くしかない。この露骨な口語(俗語、というか、地口、というか……)に、それに拮抗するような「文語(雅語)」をぶつけて、ことばを活性化するところがとても生き生きしていておもしろいと思う。
 いつでも岡井は、ことばを活性化したいのだ。知っていることばを最大限に輝かせたい。そのためには「枠」にはめるのではなく「枠」を破ることが大事なのだ。「枠」を破ったあと、どこへ出て行くか、それは知らない。しかし、まず「枠」を破る。それがことばを活性化する第一歩だ。

 それにしてもね。
 死が、岡井の書いているように、顔もわからない誰かのうしろ姿についていくしかない「未知」の世界なら、これは、つらいね。「あばよ」と後ろを振り向いて、知っている誰かにあいさつしたいけれど、振り向いているうちに「死の背中」を見失って、どこへ行っていいかわからないということにでもなったらたいへんだ。真剣に、「死の背中(うしろ姿)」をみつめて、おいかけていかなければならない。振り返って「あばよ」と言えない……。
 
 この他の歌では、

魚焼いた臭ひを逃すべく空けし窓ゆ見知らぬ夜が入り来ぬ

ひむがしの野にかぎろひの立つやうに新年よ来よ つて言つたつてよい

 が、私は好きだ。
 「魚焼いた」の「焼いた」という口語活用のことばが「臭ひ」からつづく日常的な動きにぴったりだし、それが「ゆ」という古語を経由することで「見知らぬ夜が入り来ぬ」の「見知らぬ夜」が実は、ことばの奥底(伝統)のなかで知っているものであることを告げるところがとてもいい。「ことば」にとって「知らぬ」ものなどない。ことばみんな知っている。その「知る/知らぬ」の交錯のなかに「魔」が動いている。ことばは「魔」だ。「魔」を目覚めさせるのが「詩のことば」だ。
 「ひむがしの」は、この歌集で、私がいちばん好きな一種。最後の「つて言つたつてよい」が強い。何を言ったってよい。それは短歌にかぎらない。私はこの「つて言つたつてよい」に励まされる。