高野尭『マルコロード』 | 詩はどこにあるか

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高野尭『マルコロード』(思潮社、2022年07月20日発行)

 高野尭『マルコロード』を読む。私は最近までスペインにいたので、日本語の詩を読むのは約一か月ぶりである。だから、そこに書かれていることばに、うまく適応できない。読み違いをしてしまううだろうが、まあ、そこにはそれなりの必然がある、と「弁解」から書いておく。高野の詩が、よくわからないのである。
 「蝦蟇の罠」という作品。

逆流にあらがう蛙はうつくしい、おとなになる

 書き出しの一行で、私は私の青春時代、つまり1970年代にもどる。そのころの、詩のことばを思い出す。私の詩、というよりも、60年代の、安保敗北後の詩のことば、ことばの屈折を思い出してしまう。
 まず「逆流」がくる。ここには社会と個人の対立が象徴されている。まだ社会に対して、立ち向かう若者がいた。反抗する若者がいた。それは「うつくしい」。結局敗北するのだが、敗北もまたうつくしい。抵抗し、敗北し、敗北を受け入れることが「おとなになる」ということだった。(清水哲男兄弟の詩風、特に哲男の詩風を思い出してもらいたい。)
 これは、次のようにいいなおされる。

片手に発泡酒缶をにぎり、蛙になる
間がもてない、うつくしい青年だ、青年だ

 あの頃はまだ発泡酒というものはなかったから、高野は70年代を描いているわけではなく、もっと今に近い時代を描いている、あるいは現在を描いているのかもしれないが、ことばは70年代を生きている。
 「うつくしい青年」には自己陶酔がある。詩人の特権である。自己陶酔しなければ、だれが「うつくしい青年」と呼んでくれるものか。
 このあと、その自己陶酔が、それこそうつくしいことばを呼び寄せる。

がらんどうの胸襟をひらいて青年になった
つれない風にうなじをこそがれ
しわぶく蛙の喉、しわぶきのあたりに
泡をふいて青年になっていく

 「しわぶきのあたり」の「あたり」が絶妙だなあ。ここには、高野独自の音楽が響いている。これをもっと聞きたいと私は思うが、高野はこの音楽を自覚していないかもしれない。だからこそ、私は、そういうことばを「キーワード」と呼ぶのだが、ここではこれ以上のことは書けない。「あたり」ということばがどれだけ深く高野の肉体に食い込んでいるものなのか、どこまで無意識化されているものなのか、まだ高野の「文脈/文体」になじめないでいるからだ。(きっと旅の「時差」のようなものが、私の肉体のなかにしつこく残っていて、それがじゃましている。)

蛙だ、青年になる、青筋がたって
つめよってくる、ぞうの意象をはらい
切り詰めるひとの芽は不思議に思う
あそこにもここにも、なんの矛盾もない

 この「転調」に、私はとまどう。特に「ぞうの意象」ということばのなかにある、「ぞう」と「象」の交錯の前で、「あたり」ではなく、この「ぞうの意象」のような瞬間的な、あるいは主観的なずれこそが、重複が高野のことばの本質(キーワード)かもしれないと思ったりもする。よくわからない。わからないが、いま引用した部分で言えば「あそこにもここにも、なんの矛盾もない」の「あこそにもここにも」という軽い響きに、「あたり」に通じる音楽を感じる。「なんの矛盾もない」という明るさもいいなあ、と感じる。

カーソルをすりよせ、結局フリーズしている
昼休みのログオフを長押しすれば
カップ麺の汁をすする、少年だった
すり鉢の貧乏ゆすりに、波風をたてる
鈍感な蝦蟇だ

 ああ、ここから先は読みたくない。「うつくしい青年」を高野は最終的に「無垢な少年」と言い直すのだが、これでは「逆行」というものだろう。それが、新しい詩なのか。「うつくしい青年」は敗北することで「大人になる」が、敗北を「無垢な少年」に押しつけるのは、「大人になる」のではなく、「こどもになる」ことだ。
 「還暦」ということばがある。高野は、そのことばどおり、「還暦」後を、「無垢な少年」として生きていこうとするのか。
 それもいいかもしれない。でも、いまは70年代ではない。それより以前の60年代にまで引き返す覚悟があるのかどうか、私には、高野の書いていることばがよくわからない。その運動の方向が、わからない。