「かきまぜる」 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 捨てようとしたノートから、紙がこぼれてきた。こんなことが書いてあった。
 ひとつの新しいことばが加わることで、それまでのことばの意味づけ(価値)が変わってくる。そういう運動をひきおこすのが詩のことばである。
 たとえば「かきまぜる」という動詞。
 エリオットの詩のなかにあっても、日常の会話のなかにあっても「意味」は同じだ。
 だが「荒れ地」のなかでは特別な意味を持つ。それは「生と死」を「かきまぜる」。反対のものをかきまぜる。「異質なもの」を超えて、反対のものをかきまぜる。
 だから驚く。詩を感じる。

 ことばには一定の結びつきがある。水と小麦粉をかきまぜる。水と油をかきまぜる。これは「異質なもの」をかきまぜる。かきまぜるには、「異質」であることを無視してしまう乱暴さ(暴力)がある。
 ここまでは、これまでの「ことば」が体験してきたことである。それは「ことばの肉体」になっている。「無意識の文体」と言っていいかもしれない。
 エリオットのことばは、この「文体」を破ったのだ。
 ことばがそれまで結びつけてこなかったものを結びつけ、新しい世界をつくったのだ。いや、つくったといってはいけないのかもしれない。つくろうとしている。その動き(進行形)のなかに、詩がある。