笠井杢「四丁目公園」(「アンエディテッド」4、2022年05月31日発行)
笠井杢「四丁目公園」。
飛行機雲には
空を切り裂いていくのと空を閉じていくのがあって
このジャンボジェットも
遠い空にどちらかを残して
いまは街に腹を晒している
寝っころがれないベンチの
仕切りの向こうに缶コーヒーを置いて
離れてパンをかじる人の安全性を確認しながら
わたしも誰かに見られている
この「わたしも誰かに見られている」。これは、ちょっといやだなあ。こんな詩を読みたくないなあ、と思う。誰もあなたを見ていない。見たとしても、単に「見た」だけであって、それが意味になること、つまり見た人を変えてしまうことなどない。だれも人のことなど気にしない。それぞれが自分の意味を生きているだけ。
と言いたくなるのだが。
この詩の場合は、そうでもない。ふーん、と思ってしまう。
なぜか。
一連目のジャンボジェット機の描写が効果的なのだ。
いまは街に腹を晒している
機体の「腹」が見える。「腹」というのは「無防備」な部分である。ふつうは、さらけださない。さらすことはない。その無防備な「腹」を見たということが、「わたし」に響いてきている。
それは、こんなふうに考えるとわかりやすい。
「わたしも誰かに見られている」といっても、それは「腹を晒す/曝す」ような見られ方ではない。「わたしは、だれかに腹を曝したわけではない」。(「腹の内は隠したままだ。」)
だからこそ、うさんくさいとも言えるのだが、この微妙な揺れ動きが、一瞬のこころの動きをあらわしていて、「嘘/意味」にまでなっていない。そこが、おもしろい。