古根真知子『皿に盛る』(3) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

古根真知子『皿に盛る』(3)(私家版、2022年03月01日発行)

 古根真知子『皿に盛る』のつづき。
 「爪を噛む」には、わからないことが書いてある。

きれいに
そろえて
目のなかの
緯度

ねむる方向を
なん層も
移行し

ぶつかりそうな
闇の
かけら

つもる影を
たべた
薔薇の
記憶

充足して
分散する
湾曲の
谷へ
落とし

飛びかう
飽和の
なか

わたしは
ていねいに
爪を
噛む

 一連目の「目のなかの/緯度」が、まずわからない。何の比喩だろう。「爪を噛む」というタイトルから想像すれば、爪ののびた白い部分、横の線、これが緯度をあらわすように見えた、ということか。「きれいに/そろえて」を爪をきれいに切りそろえて、という感じか。
 でも、その、きれいにそろえた爪をなぜ噛むのか。
 わからない。「ねむる方向を/なん層も/移行し」は眠られずに寝返りをくりかえしている姿にも見える。寝返りをくりかえしながら「闇」にぶつかる。「闇」は「影」がつもったものか。「薔薇」はその「闇」を食べたのか。そして「充足」したのか。しかし、そうだとして「谷」へ「落とし」たのは何なのか。
 いろいろなことを思いながら(あふれる思いが「飽和」状態常態になっている)、

わたしは
ていねいに
爪を
噛む

 この「ていねい」が書き出しの「きれいに/そろえて」と呼応する。乱暴に、ではなく「ていねいに」爪を噛む。自分の「記憶」に対して、「思い」に対して、ていねいに向き合う。
 何も捨てない。
 「噛む」は、「咀嚼する」「食べる」を連想させる。まさか爪を食べるということはないだろうが、爪を噛みながら、記憶(思い出)を食べている、自分の「肉体」のなかに閉じ込めている、味わっている、という感じがする。
 爪を噛むというのは、たぶん、うれしいときにする行為ではないが、つらいこと、悲しいこと、悔しいこと、そういう否定的なももの(?)に対しても、「ていねい」に向き合っている。
 この詩につづいて「爪を切る」。

爪さきの
しろい部分の
3ミリを
切り落とす

3ミリが含んだ
時間を
切り落とす

散らばる

爪の
切りはし

時間の
切れはし

散らばる

爪さきの
しろい部分の
3ミリの

すべての
指さきの

私の一部の
指さきの

爪を

切り落とす

 「爪を噛む」で、「記憶」と書かれていたものが、ここでは「時間」と呼ばれているのかもしれない。時間は抽象的である。爪が3ミリ伸びるまでには、一週間か十日か。私はたしかめたことはないが、そういう「客観的/物理的」な時間は、この場合、関係がない。知らずに伸びる爪。意識できない時間。それこそ「つもる」時間。「爪を噛む」では「つもる影」と書かれていたが、その「影」が「時間」なのだ。
 「時間」のなかに、何があるか。「運動」がある。「動き」がある。「動き」だけが「時間」を刻んで行く。「客観的/物理的」な規則正しい時間(時計の時間)とは別に、人間の行動が「肉体」のなかで獲得していく時間がある。出会う。愛する。交わる。憎む。わかれる。「一期一会」の、どの「瞬間」を「記憶」しているのか。「瞬間」ではなく「持続する時間」を思い出しているのだろう。
 爪を切ると、爪が飛び散るように、記憶も(時間も)飛び散るか。それは「切り落とす」ことができるか。切り落としても、また「肉体」として、生えてこないか。
 わかっていても、そうするしかない。わかっているから、そうするしかない。
 どちらだろう。
 ここには「きれい」も「ていねい」も、ことばとしては書かれていないが、逆に「散らばる」が書かれているが、それをみつめる視線は、きれいで、ていねいだ。
 見えないものを、ことばで見ようとする、そのこころの動きが、きれいで、ていねいだ。
 「追うを追う」は、そうしたことをネコの追いかけっこを見ながら書いたものだが、見えないものを見るという作品の「承認」を紹介する。

線を描く

ひとすじの
美しい線を描く

過ぎていく彼方に
線を描く

今日
姉が泣いた

心のおくの
ふかい騒ぎを
押さえて

うしろ向きで

姉が
泣いた

線を描く

過ぎていく彼方に

線を
描く

 「うしろ向き」だから、涙は見えないかもしれない。その見えない涙を「美しい線」と古根は呼ぶ。それが「描く」のは「過去」である。それがどのような過去か、古根は知っているわけでないかもしれない。けれど「過去」であることは間違いない。古根にも、同じ経験があるからだろう。
 「承認」というのは、姉が、その「過去」を過去として受け入れるということなのか、それとも、古根が、そういう人間の生き方を受け入れ、承認するということなのか。私も、そうやって生きていくということを確かめているのか。

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(skypeかgooglmeet使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」11月号を発売中です。
142ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=1680710854

(バックナンバーは、谷内までお問い合わせください。yachisyuso@gmail.com)

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com