カニエ・ナハ「二木美月」(「文藝春秋」2022年3月号)
カニエ・ナハ「二木美月」は短い詩。短いけれどイメージが豊か。
美月は二年ぶりに、映画館で映画を見ている。
二百年ほど前の映画のリバイバル上映で、
二十数時間の上映時間の間、
えんえんと海だけが映し出されている。
スクリーンのかたわらでは、
手話通訳者が波音を手であらわしていて、
ときどき、その手が鳥に変わったり、
波間にたゆたう、流木や月に変わったりする。
後半のイメージがとても美しい。「手であらわしていて」の「あらわす」という動詞がとてもいい。いままで存在しなかったものが、あらわれる、顕現するという感じがある。そのあとに書かれる「変わる」という動詞は「生まれ、変わる」というか、「生まれる」という感じがする。「生まれ、あらわれる(顕われる)」というあざやかな感じ。
途中に挟まった「たゆたう」という動詞は、まるで「生まれる」のを待っている感じ。「波間」は「時間」という感じ。
さらに。
この美しいイメージに目を奪われてしまって見落としてしまいそうなのが、前半に繰り返される「二」という数字。
映画はリュミエール兄弟が1895年に発明したのもだから「二百年ほど前の映画」は嘘である。「二十数時間」の映画というのも、嘘である。これは「二」という数字を強調するためにつかわれた「虚構」である。
「二」は「一」と「一」。映画は、本物/現実の海を写した一種の嘘。虚像。実物ではない。現実の海を「一」とすれば、映画の海はもうひとつの「嘘の一」。でも、それは重なる。「1+1=2」の「2」ではない世界が、ここでは書かれている。
「リバイバル(再映)」にも「二」が隠されているといえるし、「手話通訳」にも「二」が隠されている。「元」があってはじめて「再び」も「通訳」も可能なのである。何かを繰り返すことで、初めて生まれてくるものがある。「1+1=2」ではない「世界」がある。
「1+嘘の1(虚数の1?)=2」にはならずに、「一(現実の海)」でも「嘘の一(映画の海)」でもなく、そこから「もうひとつの一」が生まれる。それが「鳥」、あるいは「流木」、そして「月」。
「嘘」があると、ことばはどんどん拡大していく。「嘘」はとまることがない。、ということがカニエ・ナハの書きたいことではないと思うが、私は「誤読」が大好きだから、あえて、そう読むのである。
後半の叙情的なイメージも美しいが、前半の静かな論理があってこその美しさ、と私は感じる。