ガルシア・マルケス 文体の秘密(4) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 (これは、フェイスブックのガルシア・マルケスのサイトのために書いた文章です。いままで書いたものも、そこで書いたものです。記録として残しておく。)

 どんな本にも忘れられない強烈なことばがある。Garcia  Marquez の「Cronica de una muerte anunciada 」(p108)では「el rencor feliz 」と「el remanso deslumbrante 」(p134)。私はネイティブではないので、この強烈なことばの組み合わせにびっくりしてしまった。ネイティブのひとたちは、このことばをどんな気持ちで読むのだろうか。それを知りたいと思った。でも、突然、聞いても返事はないかもしれない。そこで、私は自分の考えを書いてみることにした。
 二つのフレーズの背後には、Garcia  Marquez の「書くこと」についての「思想」がある。彼にとって「書くこと」は「二度」目覚めることである。より「正気」になるのことである。
 最初に「現実」がある。これは一度目の目覚め。それをことばにすると、ことばにするまでは見えなかったものが見えてくる。二度目の目覚めのはじまり。「現実」をより正確に見るための何か、「現実」を補強する何かが見えてくる。それをことばにするとき「二度目」の目覚めが、はっきりと自覚される。それは、ぼんやりとした意識ではなく「正気」がみつめた世界。二度書くことで、より「正気」になる。
 Garcia  Marquez は一度目は「el rencorz」「el remanso」と書いた。しかし、それだけでは何かが足りない。二度目の目覚めで「feliz 」と「deslumbrante」に気づいた。そして、それを組み合わせた。
 Garcia  Marquez は「二度」目覚めたものだけが見ることができる世界を書いている。それは、ある意味では、まるで「ドラッグ」によって覚醒した肉体だけが見ることのできる世界のようだ。しかし、Garcia  Marquez は薬物中毒患者ではない。「正気」である。私たちが体験できない「正気」を体験している作家なのだ。
 そして、こういう「二度」目覚めるための「助走/準備」としてGarcia  Marquez が採用しているのが「強調構文」なのだと私は考えた。そのことを書いた。

 ネイティブのみなさんが、Garcia  Marquez の「構文」やつかっていることばについてどんな「実感」をもっているのか聞きたかった。けれど、何人からに「Garcia  Marquez の本に線を引くな」「Garcia  Marquez を批判するな」「追放しろ」「スペイン語を読み書きできない中国人、動物」「カリブ海に住まなければGarcia  Marquez を理解できない」「ラカンを引用して分析しないと意味がない」などと言われた。私はGarcia  Marquez の文体もことばも、一度として批判してはない。ただ、引用し、考えているだけだ。
 多くの友人に出会え、また助けてもらったが、私はもっとみなさんの具体的な感想が聞きたかった。Garcia  Marquez を読んだとき、新しいことばにであった瞬間、どう感じたのか。どんなことばを手がかりにして、そう感じたのか。そうしたことを聞きたかった。
 「追放しろ」と書いた人に約束したように、私は「Cronica 」を読み終わったので、このページではもう書きません。しかし、しばらくは訪問します。君たちが「Cronica 」のどのことばに感動し、どう思ったのか。私が感動した「Cronica de una muerte anunciada 」「el rencor feliz 」をどう感じたか教えてください。