ガルシア・マルケス 文体の秘密(3の追加) | 詩はどこにあるか

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ガルシア・マルケス 文体の秘密(3の追加)

 前回の文章は、少し書き急ぎすぎた。これまで書いてきたこととの関係を省略しすぎた。少し追加しておく。
 Garcia Marquezの文体の特徴のひとつに「強調構文」がある。口語的なことばのリズムがそれを引き立てている。
 私が最初に取り上げたのが、

lo fueron a esperar 

 という単純なものであった。単純すぎて、その文章にGarcía Márquezの「独自性」を見出せないかもしれない。特にネイティブのひとは何も考えずに読むと思う。でも、これは「lo=santiago Nasar」を強調したスタイルなのである。「fueron a esperarlo」では、「lo」が「esperar 」という動詞にのみこまれてしまう。焦点が「 fueron a esperar 」という動詞の主語、「los gimelos 」になってしまう。さらに、ことばのスピードも落ちる。「 esperarlo」は「 esperar」より長いからだ。
 これと逆の「強調構文」が133ページに出てくる。Desde el lugar en que ella se encontraba podía verlos a ellos, この最後の部分

 verlos a ellos 

 「los 」=「a ellos (los gemelos )」。「a ellos 」はなくても意味は同じ。でも、García Márquezはあえてつけくわえている。文章が長くなるにもかかわらず、この構文を採用している。この文章の「主語」であるPlácida Lineroの動きをまず書きたかったからだ。この部分では「主役」はPlácida Lineroである。しかし、los gemelos も忘れてはならない。だから、それを強調するために「 verlos a ellos 」と書いているのだ。
 また「構文」とは関係ないのだがClotilde Armentaの次の描写も強烈である。

Clotilde Armenta agarró a Pedro Vicario por lacamisa (P131)

 「agarró」はなんでもない動詞だが、私はここではっと目が覚めた。それまでの登場人物は双子の兄弟に触れていない。肉体接触がない。だれも彼らを直接止めようとしていない。市長はナイフを取り上げたが、彼らに触れてはいない。彼女だけが自分の肉体をつかっている。このあと、彼女は地面に突き倒される。
 ここから目が眩むような殺人が描かれる。「agarró」ということばがきっかけで、実際の行動がはじまるのである。殺人計画が準備準備だけではなく、実際に動き始める。実際の犯行の前の、その「動詞」が犯行を強烈に浮かびあがらせる。「agarró」は、すぐに反対のことば「tiró」になって動く。「反動」が鮮烈である。さらに「empellón」に肉体を印象づけることばがつづく。

Pedro Vicario, que la tiró por tierra con un empellón,(P132) 

 「agarró」→「tiró」→「empellón」。これも「強調」のひとつなのだ。

 もう一つ、「dos veces 」の結果として生まれてくる不思議なことばがある。

remanos deslumbrante(P134)

 「remanos 」は、常識的には「deslumbrante」ではない。私はネイティブなので誤解しているかもしれないが、「remanos 」は、むしろdeslustrado やpenumbraであり、oscuroである。しかし、異様に覚醒した状態、絶対的な正気(lucidez )では、矛盾が矛盾ではなくなる。
 似たような矛盾したことばの強烈な結びつきは「rencor feliz」(P108)に出てきた。これも「強調」なのである。
 García Márquezzの文章は、頻繁に「realismo magico 」と呼ばれるが、「remanos deslumbrante」や「rencor feliz」のような強烈なことばが出てくるからかもしれない。しかし、これは「魔法」ではない。Garcia Marquezが生み出した現実である。こういうことばを読者が自然に受け入れられるようにするために、García Márquezは強調構文を積み重ねているのである。
 これは、こんなふうに考えてみればわかる。
 私は人を殺したことがない。殺されたこともない。だから、García Márquezが書いていることが「真実」かどうか判断することができない。本当はできないはずである。しかし、それを「事実/真実」と思ってしまう。ことばの力が「事実/真実」をつくりだすのだ。
 書かれていることが「絵空事」(現実には起こり得ないこと)であっても、そこに書かれていることばは「事実」そのものなのである。ことばが、架空の存在ではなく、いつも現実に存在する。だから読むことができる。「文体」もまた「事実」である。架空のものではない。だから、私は「何を書いている」ではなく「どう書いているか」について感想を書く。「文体」について感想を書く。