ことばの読み方
私は特別変わったことばの読み方をしているとは思わなかったが、マルケスのサイト(スペイン語)で対話していて、私の読み方が他の人とは違うことに気がついた。みんなが「文学を楽しめ」としきりに言うのだ。私は私で楽しんでいるのだが、どうも楽しんでいるようには見えないらしい。あまりに何度も言われるので、みんなのやっていることとどこが違うのか考えてみた。多くの人が、作品の「一部」だけを引用して、何もコメントしていない。これ何? これが「楽しむ」ということ?
で、気がついたのだ。
音楽を例にすると、きっとわかりやすくなる。
音楽は、たいていは「聞く」。聞いて楽しむ。ところが、音楽にはほかに「演奏する」楽しみもある。私は「聞く」ではなく、「演奏する」という方の楽しみ方なのだ。
楽譜がある。読むと音が聞こえてくる。あ、この音(メロディー)がいいなあ。この部分をもっとも印象づけるにはどういう演奏方法があるだろう。それを考えるように、私はことばを読むとき、これはどんなふうに全体のなかで位置づけ、どこを強調すればいちばん強烈に印象に残るか、と考え、そこで考えたことを書いている。それを考えるのが楽しみ。
全体を「聞く」だけでは満足できないのだ。「聞く」で満足するときも、ある人の演奏、別の人の演奏と聞き比べて、こっちの方が好き、という感じで聞いてしまう。「ここの演奏の仕方が好き、嫌い」という感じ。
読むときは、読みながら、こういう書き方の方が好き、と思ってしまうのだ。「書いてあること(テーマ、意味)」ではなく、「書き方」の方に興味があるのだ。
飛躍するが。
たぶん、これは「一元論」と関係している。私はあらゆる存在は、そのときそのとき、必要に応じて、私の目の前にあらわれ「世界」をつくりだしていると考えている。そのつど「世界のあらわれ方」があるだけで、確固とした世界はない。あるとすれば「混沌」があるだけ。
ことばは「世界のあらわし方」なのだ。音楽は「演奏の仕方」なのだ。楽譜に戻していえば「作曲の仕方/音符の組み合わせ方」なのだ。実際に「演奏されたもの」「書かれてしまった作品」よりも、それが「あらわれてくる、そのあらわれ方」に興味があるのだ。「出現(させる)方法」に興味があるのだ。
世界は「出現(させる)方法)」によって違ってくる、「世界=世界出現(させる)方法)」なのだ。
だから、私は、どの作品を読むときでも、他の作品とほとんど関係づけない。関係づけるとしたら「ことばのあらわれ方/あらわし方」だけを関係づける。外国の思想家のことばをもってきて、詩を解説するということをしないのは、そういう理由による。その思想家にはその思想家の「世界のあらわし方」がある。それはいま読んでいる詩人の「詩のあらわし方」とは関係がない。その思想家と、その詩人が交渉して、それぞれに影響を与え合っているというのなら別だが。ふたりが交渉していないなら、それは「無関係」としか言いようがない。私にとっては。私とその思想家、私とその詩人という「一対一」の関係以外の何も存在しない。