「パイドン」再読(3) | 詩はどこにあるか

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「パイドン」再読(3)(「プラトン全集」1、岩波書店、1986年6月9日第三刷発行)

魂は、存在していたのだ、シミアス。この人間というもののうちに存在する以前にも、肉体からは離れて、しかも知をともないつつ、存在していたのだ(219)

 私は魂の存在を感じない。ソクラテス、プラトンは好きだが、私は、ここは同意しない。
 私は、ソクラテスが「魂」と呼んでいるものを「ことば」と置き換えて読む。
 私が生まれる以前(人間という存在になる前)にも、私の肉体から離れて、しかも知をともないつつ、存在していた。
 何の矛盾もない。「ことば」は語られると同時に書かれていた。書かれたことばが残されている。私の肉体は、その「ことば」のなかに生まれてきた。この世に生まれるということは「ことば」のなかに生まれるということである。
 「ことば」には、それまで生きてきた人の「肉体の記録」も残っている。「動詞」がそのことを教えてくれる。「肉体」はどう動くか。その結果、そこにあるものに対してどう働きかけるか。その具体的な証拠が「動詞」だ。

 ソクラテスは、「魂」を「想起」と関係づけて語っている。「想起」とは「学ぶ」ということである。

学び知ると呼んでいるはたらきは、本来みずからのものであった、かの知識をふたたび把握することとはならないだろうか。そこでそのことを、想起することというのは、ただしい言い方とはならないだろうか(217)

学知は想起だということになろう(217)

 「魂」はみずからが持っていたものを想起することでふたたび手に入れる。学ぶこと、知ることは、みずから知っていたことを想起すること--。この不思議な「論理」はどこから出てきたのか。なぜ、「魂」が「記憶」をもっていなければならないのか。
 私は、ソクラテスが「書かなかった」ということと関係していると考えている。
 ソクラテスは語ったが、ことばを書き残さなかった。書き残したのはプラトンである。ソクラテスにとって、ことばとはつぎつぎに消えていくものである。声そのものである。語るということは、過去に語ったことばを思い出し、点検することである。これを「学ぶ」と言っている。自分が言ったことばだけではなく、他人が言ったことばも「思い出し」(想起し)、それを動かしてみる。きちんと動くかどうか確かめてみる。これが「学ぶ」ということ、「ことばの働き」を学ぶ。そして、それが確立された(他人と共有された)とき、その「学び」は「知」にかわる。
 ことばが声に限定されるとき、魂は、たしかにそれを予め知っていなけばならないかもしれない。予めもっていなければならないかもしれない。そうしないと、「思い出す」ということができない。
 でも、ことばが「肉体」を離れて「文字」として記録されて残るならば、それは人間の肉体が覚えている必要はない。肉体とは別のものに託しておくことができる。この「消えない文字」こそが、「ことばの肉体」の証拠なのだ。人間の肉体は死とともにつかいものにならない。存在しないに等しくなる。でも「ことばの肉体」は残る。
 そして「ことば(の肉体)」のなかには「肉体の動き(動詞)」も含まれる。「動詞」に触れることで、「肉体」は「肉体」の動かし方を知る。そこから「肉体のことば」が生まれる。「ことばの肉体」と「肉体のことば」が交錯しながら、人間を作り上げていく。これを、私は「学ぶ」と呼びたい。

 ソクラテスが「魂」と呼んでいるものを、私は「ことば」と置き換える。そうすると、すべてが納得できる。「魂」は「学び知る」という働きをする。それは「魂」みずからがもっているものを想起するのではなく、「ことば」を肉体に還元しながら、つまり肉体の動かし方を学びながら、学んだことを蓄積するのである。