野沢啓『言語隠喩論』(11)(未來社、2021年7月30日発行)
あとがき。
野沢も「あとがき」を書いているのだが、その「あとがき」についての感想ではない。私がこれまで書いてきたことに対する、私自身のあとがき。
野沢はこの本の中で「身分け」「言分け」ということばを紹介している。このことばは、とても刺戟的だった。私はそのことばを知らなかったが、読んだ瞬間、あ、これは私が考えていることに似ている、と「文字面」から思った。私は野沢が紹介している市川浩、丸山圭三郎を読んでいないので、私の考えている「身分け」「言分け」は野沢の考えている「身分け」「言分け」とは違ったものであると思う。しかし、このことばはつかえるなあ、と思ったのである。
「身分け」「言分け」とはなにか。私たちは「肉体」をもって世界の中に存在している。世界と向き合うとき、必ず「肉体」も動く。「肉体」を動かすことで世界を確かめ、世界の中へ入っていく。これを、世界に対する「身分け」と私は勝手に理解する。「身分け」ということばをつかって、私が考えてきたことを、整理する。そして、こういう「身分け(肉体をつかって世界に入っていく)」をするとき、同時に「ことば」も動く。「肉体」を通して、あ、これはこういった方が自分の「肉体」には納得がいくなあと思い、今までとは違うことばのつかい方をする。これを「言分け」と呼ぶことができると思う。「身分け」と「言分け」には強い、密接な関係かある。「肉体の運動」と「ことば」の間には切り離せない関係がある。
私は、この「肉体」と「ことば」の密接な関係を、誰から学んだか。ソクラテス(あるいはプラトン)、ハイデガー、マルクスである。プラトンはときどき読み返す。ハイデガーは「存在と時間」を三回読んだが理解できなかった。マルクスは読んだことがなく、私の周りで見聞きしたことを頼りに、これがマルクスとかってに思い込んでいる。この三人には共通点がある。ソクラテスはことあるごとに「靴職人」「馬の飼育係」を例に引き出す。靴職人も馬の飼育人も自分自身の「肉体」をつかって靴をつくり、馬を育てる。そのとき彼らは、私の知らない形で「肉体」をつかっている。そして、そこから「智慧」を自分自身のものにしている。「智慧」とは明確な「ことば」にならなくても、「ことば」を含んでいる。ハイデガーは「存在と時間」のはじめの方にハンマーと手のことを書いていた。手を使ってハンマーを動かす。そうすることで鉄に変化を生み出す。それは世界へ「肉体」をつかって入っていくということである。このときも「ことば」が存在するはずである。ハイデガーは「投企」というようなことばをつかっていたと思う。それはハンマーを動かす人が思いついたのではないが、ハイデガーがハンマーをたたく人間になったときに思いついたことばである。「肉体」が世界に入っていくとき、どうしてもそのことを「正当化」するための「新しいことば」が必要である。この新しいことばをつくることを「言分け」と呼ぶことができると思う。マルクスは、労働(基本は「肉体)」と金の関係を考えた。金は「ことば」そのものではない。しかし、「ことば」のように「関係」を描き出す。一枚の布がある。それをつかって上着をつくる人がいて、一方にハンカチをつくる人がいる。肉体の動かし方は違う。それは支払われる金の違いになってあらわれる。これは「言分け」というよりも「金分け」と呼ぶべきものかもしれないが、その金が1000円とか100円とか、明確に区別されるとき、それは「ことば」の区別でもある。この三人から、私は「肉体」が動くとき、世界が変わり、同時にその世界を語る「ことば」がかわるということを学んだ。それを、私は、市川、丸山、そして野沢がつかっている「身分け=言分け」とは違うかもしれないが、同じ「身分け=言分け」としてつかうのである。借用するのである。こういうことを「誤読」「誤解」「誤ったつかい方」と言うのだろうが、私は私の考えを進めるために、私なりの解釈で、ことばをつかう。他人の言ったことばを正しく理解するというのは大切なことだろうが、私は市川や丸山と対話するわけではなく、ただ自分の考えを書くためにつかうのだから、「正しさ」を気にしない。市川や丸山、野沢に、私の考えを「採点」してもらうために書くのではない。
で、ここからが本題。
野沢は安藤元雄の「からす」を引用し「身分け」「言分け」ということばをつかって感想を書いている。「からす」は、
さて おれはここにとまって
空がしきりと赤い方角を眺めているが
別にあれが何かのしるしというものでもあるまい
飛ぼうと飛ぶまいと おれはどっちみち
空と地面の間に閉じ込められているだけだ
と始まるのだが、この詩に対して野沢は、「身分け」「言分け」ということばをつかってこう書く。「どこともわからない〈ここ〉から詩が開始されるのだが、〈ここ〉とはまさに詩人=哲学的カラスが未知の世界へ身をもって対峙しているスタートの地点である木の枝なのであり、それは世界に対峙する詩人の〈言分け〉の姿勢なのであって、そこから最初に分節される〈空がしきりと赤い方角〉とは夕陽のことをさしていることがあとでわかってくる。(略)詩人=哲学的カラスは動かないという断固たる選択をおこなうことによってじつはみずからの詩を、この対象たる世界にたいしてのひとつの身分けの行動を発動しているのである」。
私なら、こう書く。枝に止まって動かないという「肉体」のあり方が世界に対する「身分け」である。それは「とまっている」という動詞で表される。そして、その動かないという姿勢でいるとき、「とまっている自分」の外にある世界は、まず「空がしきりと赤い」ということばで言い表される。「言分け」される。そして、その「言分け」された「空がしきりと赤い(方角)」は「眺める」という動詞(肉体の動き)」によって完結される。「見分け=言分け」が一体になった動きを「分節する」と言いなおすことができると思う。
安藤のこの詩の「肉体」の動きは「とまる/眺める」である。「とまる」は詩の後の方で「枝に載ってさえいれば」「枝を一本掴んでいるだけで」と「載る/掴む」と言いなおされているが、「とまる」は「閉じ込められる」にも通じるだろう。「とまる」には「閉じ込められる」という「隠喩」が隠されていることになる。そして「とまる」の反対の動詞としては「動く」がある。「閉じ込められている」ものは動けないが、閉じ込められていないものは「動く」。動かないまま、動くものを、眺める。それがこの詩の「肉体」のあり方、「身分け」の姿勢であり、その姿勢から世界かどう認識されるかが言語化(言分け)されるという構造を持っている。
「〈空がしきりと赤い方角〉とは夕陽のことをさしていることがあとでわかってくる」と野沢は書いているが、カラス、空が赤いなら、これは夕焼け(夕陽)のことであるのは、あとで補足されなくても、多くの日本人なら想像してしまう「定型」の風景だろう。夕焼けの赤は、当然のことながら変化していく。暗くなっていく、というのも「常識=定型」である。定型を利用しながら、安藤は、カラスは枝に「とまっている」が、そのときも世界は「動いている」を暗示している。「隠喩」している。
そして、その後、「とまる」と「動く」の想像力の交渉がある。「言分け」が進み、詩の世界が展開する。その過程で、
飛び立ったが最後 おれの体はたちまち散らばって
嘴だの目玉だの何枚もの羽根だの
その羽根の軸だのということになる
(略)
或いは輪の中心に死んでいる一匹の鼠
を見つけるまでは
おれは密度がゼロになるまで拡散し
それから鼠の上で収斂するのだ
と、もし「とまる」ではなく「飛ぶ」ならば、世界はどう分節(身分け=言分け)されるかが書かれている。これは飛んでいる自分の姿を想像し、それを眺めているのである。「飛ぶ」ときは肉体のさまざまな部分を酷使する。「足」でとまっているときとは違う。目も嘴も羽根も動かし、鼠に襲いかかる。(それは死んでいる鼠だが)。餌を見つけるまでは、「世界」の中を飛び回る。飛び回ることで、カラスが「世界」を動かすのである。それは羽根の動きが、そのまま世界の動きになるのである。「眺める」は、「動かない」ものを探すことに従事する。獲物を探すから、「肉体」は動く。それを「安藤は「散らばる」と書いている。そして、獲物が発見されたら「照準」のずれが「ゼロ」になり、つまり「肉体」も一点に向かって収斂し、鼠を手に入れる。世界は完全に「停止」する。この世界の完全な一体化、完全停止がカラスの理想である。これは逆に言えば、このカラスは飢えて木の枝の上にとまっている。死んだ鼠さえ自分のものにすることができないということだ。それくらいに「肉体」が弱っている。だからこそ、「飛び立ったが最後 おれの体はたちまち散らばって」と自分の死も予想する。そして、そこから他のカラスを見ているのである。他のカラスだって、やがて自分のようになる、と「眺めている」。世界が、一匹の鼠のように、完全に停止することを待っている。「あの鼠、殺さなければ死んでしまう」と言ったのはベケットの戯曲の中の誰だったか知らないが、このカラス、殺さなければ死んでしまうというくらいの状況の中で、まだ世界へと入っていっているのである。「ことば」は、そんなふうにいつでも「生きている」のである。生きていけるのである。
詩は、こう結ばれている。
おれが目をつぶったところで
ここに平べったく降り注ぐ光
は相変わらずだ
まだああやって赤い方角からよろよろ帰って来る奴らが
全部揃って目をつぶることが必要なのだ
そうすれば夜が来るだろう 顔のない夜が
それまでは いま暫く
どすぐろい羽根の軸でも嘴でこすってやるだけだ
書き出し二行目の「眺める」は「目をつぶる」にかわっている。「目をつぶる」は単に眠るではない。「永眠する/死ぬ」である。まだカラスは死んでいないが、死ぬことによって永遠に生き続ける「隠喩」になる。「死んでいる一匹の鼠」ということばのなかの「死ぬ」という「動詞」の重さを見逃してはいけないと思う。「とまる」は「死ぬ」でもあるのだから。
野沢は簡単に「哲学的カラス」と書いているが、それが不満だったので、「あとがき」という形で追加しておくことにした。
*
私は詩を読むときにかぎらないが、ことばを読むときは「動詞」に注意して読む。「動詞」になら、自分の「肉体」を重ねることができるからである。私は、精神やこころというものもほんとうに存在しているかどうかあやしく感じている。左手はこれ、右足はこれ、と確認することができるか、精神やこころが果たして頭にあるのか、小腸にあるのか、指先にあるのか、わからない。そのときそのときで場所をかえるかもしれない。わかるのは「肉体」があるということだけだから、「肉体」を動かす「動詞」と、動いた肉体が見つけ出すものを読むしかないな、と考えている。