鴎外の日本語 | 詩はどこにあるか

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いま、日本語を勉強しているアメリカ人と一緒に森鴎外の「雁」を読んでいる。新潮社の文庫の20ページ。
「坊主頭の北角の親父が傍から口を出した。」という文章がある。「口を出した」は、他の地の文の「こう云った」と同じ意味である。しかし、ニュアンスが違う。「口を出した」には「余分なことを云った」というニュアンスがある。
で、これを「頭をつるりと撫でて云った」と言いなおしている。
「頭をつるりと撫でる」という動作は「余分なことを言いまして、申し訳ありませんね、へへへ」という感じだ。
「余分なことを言いました」と実際に言う人もいるが、この北角の親父は、それを言わずにかわりに「頭をつるりと撫でる」。
このことばの連携(口を出した-頭をつるりと撫でる)の「絶妙」としか言いようのない感じをアメリカ人に伝えたいのだが、これはむずかしいね。
理解されないかもしれないと思いながら、しかし、私はそれを説明する。いま伝わらなくても、いつかきっとわかる日がくるだろうと信じて。
このことばの連携のニュアンスがわかるようになれば、N1というより、「日本語の達人」という感じか。
私の経験で言うと、こういうことばの連携に気をつけて「ことば」を読むということを、いまの若い世代の多くの人はやっていない。
「口を出した」という表現から、あ、次には「余分なこと」がくるな、と予測して読む人はもっと少ない。
でも日本語を教えるかぎりは、そういうところまで教えたいなあ、と私は思ってやっている。
外国人相手だけではなく、日本人相手にも、そういうことをしてみたいなあと思っているが……。


どうでもいいが、この新潮文庫「国の女房や子供を干し上げて置いて」の「干し上げる」に注釈をつけていない。
これは、なんというか、いまの若い人にも通じにくいだろう。
「上戸」などは辞書を引けばわかるし、若い人もつかうが、「干し上げる」はどうか。
「ひもじい思いをさせる」なんだけれど。
「口を出す」と同じで、なかなか、ね。