池田清子「離れ」、青柳俊哉「膚」、徳永孝「演歌」(2021年06月21日、朝日カルチャーセンター福岡)
受講生の作品。
離れ 池田清子
奥に長―い土地だった
母屋に、伯母と五人の従兄姉たち
離れに、私と兄と両親
中庭と廊下でつながっていた
きょうだいのように遊んだ
楽しかった、大好きだった
♪貴様と俺とは同期の桜~♪
兄が歌っていると
「その歌は二度と歌うな」と
従兄が激しく怒った
伯父は硫黄島で戦死していた
戦後何年も経つのに
私達はまだ軍歌を歌っていたのだ
中2の時に引っ越しをした
少しずつ遠くなり、淋しかった
私は、生まれた時から皆なの中にいたけれど
従兄姉たちにとっては、
離れで生まれた小さな従妹
中庭をはさんで、
どんな思いで離れを見ていたんだろう
私達は、父親のいる核家族だった
思い出を描いているのだが、ことばの選び方に気配りが感じられる。一連目「母屋に、伯母と五人の従兄姉たち」とある。しっかり読めば、そこに伯父はいないが、だれかの家をあらわすとき「伯父の家」「伯母の家」とどちらかひとりを代表させていうことはある。作者の意識次第で、「伯父」になったり、「伯母」になったりする。そのつぎの行に「両親」が出てきてはじめて、あ、「伯母」はいるけれど「伯父」はいないのだ、とかすかにわかる。しかし、一連目の印象は、それよりも「従兄姉たち」と「私と兄」が「きょうだいのように遊んだ」という楽しい記憶の方に引っ張られる。楽しい思い出が書いてあるのだと思って読み始める。
二連目で「伯父」が不在の理由が明らかにされる。戦死した。「私」には、「戦死」というものがどういうものかはっきりとは認識されていない。兄もそうである。しかし「従兄」は認識している。
それは五連目で、言いなおされる。認識の違いは「戦死」だけではない。「戦死」にともなう父の不在、他方には父がいる。「きょうだい」のように遊んでいても、そこには何かしらの「認識」のちがいがあったのだ。
最終連「私達は、父親のいる核家族だった」と、ここにだけ「父親」ということばが出てくる。それがぼんやりと死を読んできたこころに突き刺さる。ひとはだれかを傷つけようと思って何かをするわけではないが、そういうことであっても傷つくひとはいる。何もしなくても、父親がいる、という当たり前のことがひとを傷つけることもある。
池田は、そういうことを理屈っぽく説明するのではなく、「父親」ということばを最後にぽつんと書くことで語っている。多くのひとが経験してきた「歴史」だと思うが、たんたんと書き、説明を加えずに、「伯母と五人の従兄姉たち」の悲しみを描いているところがいい。
タイトルの「離れ」も印象的だ。同じ敷地。でも建物が違い、「家庭/家族」が違う。違いを抱えて生きることの悲しみが、静かに、そこにある。
*
膚(はだ) 青柳俊哉
白い雨中に散る桜もみえず
微光のふる地下の街へ降りていく
黄色い灯の下でコーヒーを啜るきのうのわたし
行き交う人の誕生と死をおもい
初めての夜の叫びと最後の朝の灯の唇をおもい
移りいく命の光芒をみつめる
裸木に枯葉は色づき
蝉は蛙に声部を変え
桜の中に白い雨が散っている
黄色いわたしも雨中に織られる一続きの膚
時の生地に命をしるし 無限の中へ織り込まれていく
単衣のうえの微光の膚をみつめる
二連目の「きのうのわたし」が、この詩に遠近感を与えている。自分自身のなかにある過去。それをみつめるとき見えてくる「人の誕生と死」のあり方は、「きょうのわたし」しか意識しないときとでは、かなり違う。「きのう」わたしは生まれ、「あした」わたしは死ぬかもしれない。時間を「物理的」にとらえればそういうことは起きないが、「意識(形而上学)的」にとらえれば、ありうる。時間の「距離感」は「意識」のなかにしかない。
「時間」のなかで何が起きているか。生と死はどう結びついて「時間」をつくっているのか。「時間」とは「時(誕生)」と「時(死)」の「間」のことである。青柳は「黄色いわたしも雨中に織られる一続きの膚」と書いている。何と一続きか。「裸木」「変える」「桜」「白い雨」。世界に存在するものと「一続き」なのである。
「一つ」であることが「無限」を認識させる。「一つ」であるから「無限」を認識できる。「織る」ということばが「単衣」の「衣」と結びつきながら、その「単」がもう一度「一つ」を引き寄せる。
*
演歌 徳永孝
TVでは昭和演歌が流れている
おまえをおれのものにして
一生とりこにしたいのさ
黙っておれに従(つい)いてこい
今を生きている私(わたくし)は
あなたを私のものにして
わたしの蜜でとろけさせ
一生わたしの奴隷にしたいのよ
時間のなかでひとは変化していく。「昭和」から「平成」を経て、「令和」の時代。ひとの生き方も変わらざるを得ない。「演歌」のなかに、徳永はその変化を見ている。昭和の時代は男が女をリードしていた。いまは女が男をリードしている。
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