José SARAMAGO 『Enasayo sobre la ceguera』と雨沢泰・訳 | 詩はどこにあるか

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José SARAMAGO 『Enasayo sobre la ceguera』と雨沢泰・訳『白の闇』( NHK出版、2001年02月25日発行)

 私が読んだ『白い闇』は2001年に出版されている。改訂版が出ているようだが、私は読んでいない。その2001年版なのだが、前回書いたように、訳がサラマーゴの「文体」を十分にくみ取っているとは思えない。ラジオ講座の初級についていくのがやっとの私が言うのは問題があるかもしれないが、その私でさえ、これではサラマーゴがかわいそうと思う「訳文」である。ほんの書き出しを読んだだけだが。
 きょう指摘したいのは、邦訳の8ページ、前のページから始まった段落の最後の部分。止まったままの車に向かって、後続の車から人が降りてくる。窓を叩く。

なかにいる男は人びとのほうに首をめぐらし、それから反対側に顔を向けた。男ははっきりとなにごとか叫んでいる。その口の動かし方から判断すると、いくつかの単語をくりかえしているようだ。一語ではない。ある人がようやく車のドアをあけたとき、なにを言っているのかわかった。目が見えない。

El hombre que está dentro vuelve hacia ellos la cabeza, hacia el otro, se ve que grito algo, por los movimientos de laboca se nota que repite una palabra, una no, dos, así es realmente, como sabremos cuando alguien, al fin, logre abrir una puerta, Estoy ciego.

 雨沢が「一語ではない」と訳している部分は「una no, dos,」である。私なりに訳すと「いや一語ではない、二語だ」である。ことばは音が聞こえないとき、いくつの単語を言っているかわかりにくい。長い単語もあれば短い単語もあるからだ。だからこそ「一語かな? いや違う、二語だ」と書くことで、サラマーゴは、車の外にいる人たちが、男がなんと叫んでいるのか聞き取ろうとしている様子を描いている。そして、その「二語」が、最後の「Estoy ciego 」(私は/盲目、という二つの単語)につながっている。「una no, dos,」は、「目が見えない」(私は盲目だ)の重要な「伏線」なのである。
 雨沢の訳で、もちろん意味は通じる。しかし「一語ではない」では、「二語」のそれぞれがわかったときの衝撃度が違う。「二語だ」とあるからこそ、「Estoy cieg」の二つの単語の重みがわかる。
 さらに、この「Estoy cieg」の「Estoy 」の意味が、本を読み進むうちに重みを増す。「Estoy 」(私は……です)の「私」が次々に増えていき、「estamos 」(われわれ)に変わっていく。「見えない」だけなら「No puedo ver nada 」でも通じる。でも、ここではどうしても「estoy 」という「一人称」が必要なのだ。
 私はこうした「伏線」のことを「呼応」と呼んでいるが、雨沢の訳は「呼応」を見落としている。前回書いた「信号」を「semáforo 」ではなく「disco 」と表現しているのに通じる。文学は「意味」ではなく、「表現」の細部なのだ。
 そして、この表現の細部に関していえば。
 サラマーゴのこの小説にはコンマ「, 」が非常に多い。(この小説にかぎらず、多いのだと思う。「Caín 」という小説もコンマだらけである。「Caín 」は、未読。友人が送ってくれたので、手元に持っているだけ。)サラマーゴはコンマによって「文体」をつくっている。意識の躍動というか、変化そのものをあらわしている。雨沢はコンマを読点「、」ではなく句点「。」にかえて訳出している。ときどき、省略もしている。それはそれでひとつの工夫だし、読みやすいのだが、どうしても「呼吸」がつたわらない。
 たとえば「ある人がようやく車のドアをあけたとき」の「ようやく」は日本語訳では読みとばしそうになる。読みとばしても問題はない。しかし、この「ようやく」をサラマーゴは「, al fin, 」とコンマで挟んで強調している。この強調は「意味」の強調であるだけでなく「呼吸」の強調である。「肉体」全体でことばを動かしているのである。「呼吸(コンマ)」には、とても重要な意味があるのだ。雨沢の訳文では「ようやく」は「あけた」という動詞にかかる。原文では「 asi' es realmente」と呼応しながら「 sabremos 」(わかった)にかかっているようにも感じられる。私はネイティブではないので、これは一種の感覚にすぎないのだが。
 呼吸の重要性は、「una no, dos 」の前後を見るとよくわかる。「 una palabra, una no, dos, así 」とサラマーゴは書いている。「一語をくりかえしている。いや、一語ではない。二語だ」というのが私の考える「訳」である。雨沢は「いくつかの単語をくりかえしているようだ」と訳しているが、サラマーゴは「 unas palabras」と「複数形」では書いていない。最初は「一語」だと思った。それが「二語」だった。その「認識」の変化が呼吸そのものにあらわれている。そして、その「二語」とは「Estoy ciego 」だったと書いている。( そして、この「一」が「二」に増えるというのは、先に書いたことの繰り返しになるが、「私」が「私たち」に増えていくことにつながる。)
 この衝撃。コンマが、その衝撃を高めている。
 このコンマの意味は、簡単な日常会話でもつかみとることができる。
¿Cómo estas?(元気?)
Sí, estoy bien.(もちろん、元気)
 コンマの部分で、どれだけ「呼吸」を置くか。それは「Sí」をどれだけ強く発音するかにもかかわってくる。強く発音し、呼吸をおけば「もちろんだよ/もちろんじゃないか」という強調になる。声の響きが違ってくる。
 思うに、この雨沢というひとは、「ことば」を「声(会話)」から肉体に叩き込んだのではなく、もっぱら「読む」ことだけで理解しているのだろう。この小説は、人間が突然盲目(白い闇につつまれる)という内容なので、「肉体」感覚がどれだけ「文体」として表現されているかが重要になる。私はやっと二段落を読んだだけだが、雨沢の訳は、その重要な「肉体感覚」(肉体のリズム)を伝えきれていないのではないか、と非常に疑問に感じた。
 あえて「二回目」の感想を書いた理由は、そこにある。