嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(116) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

*(どこといつて方角になじみがなかつた)


生命が辛うじて何かにつまずきながら辿つていつた

 「つまずく」と「辿る」が組み合わさっていることろがいいなあ、と思う。
 私は具体的なもの、手で(肉体で)確認できるものが好きである。そして「つまずく」というのは好きである。自分の「肉体」のなかにある「欠陥」のようなものが見えてくる。つまずいて、転ぶときもあるし、つまずいて、態勢を立ちなおすときもある。その態勢を立ちなおすとき、それは何かを「辿ってる」。辿るというのは、何かにさわりながらという印象がある。そのときの、不思議な「肉体」の交流のようなものが、安心できる。自分の「肉体」のなかにある「他人の肉体」、それは「無自覚のいのちの肉体」ということかもしれない。

そしていまぼくを揺するものは
とどろくような大きな沈黙だ

 この詩は、こう閉じられる。「揺する」と遠くにあって「辿る」ことを誘っている何かだと思ってみる。「無自覚のいのちの肉体」というのは、どこにあるかわからない。自分の「肉体」のなかにあるときもあるし、自分の「肉体」の外にあって、見えない力で「揺する」ときもある。
 嵯峨はそういう存在を「大きな沈黙」と呼んでいる。

 この詩の感想で、嵯峨信之全詩集の作品をすべて読んだことになる。最初は「誤読」という詩集の形でまとめたが、その後は、思いつくままに感想として書いてきた。これもまた、別の「誤読」である。
 つまりそれは「評価」ではないし、「批評」でもない。ただ、私が考えたことだ。嵯峨のことばに触れて、私のことばが動く。
 他人から見れば、何の意味もないことだと思う。
 また、私にしても、何か意味があると思ってやっているわけではない。「意味」はやってくるとしても、遅れてやってくる。いずれ遅れてやってくるもののために、書いてみるということが大事なのだと私は思っている。

 

 

 


*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)