バルガス・ジョサ「継母礼讃」 | 詩はどこにあるか

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バルガス・ジョサ「継母礼讃」(西村英一郎訳)(再読)

これは、ポルノグラフィティかギリシャ悲劇か。
どちらでもいいが、私は「文体練習」として読んだ。
三人の登場人物と、状況に合わせた何枚かの絵が、異なった文体で描かれる。三人と書いたが、少年は独自の文体を持たない。後半に出てくる作文も本文は示されずに、父の文体の中に取り込まれる。異なった絵の描写、変化していく絵への語り口の変化が、あえていえば少年の文体ということになる。

「文体練習」は、ことばの練習でもある。ことばで何が表せるか。
象徴するような文章が100ページにある。

彼女の体をもっとよく表すのは<張り>という言葉だ。

ジョサがいかにことばにこだわっているかがわかる。色でも音楽でも匂いでもいいが、それをことばにしないといけなお。究極的に、ことばにしたことだけが「事実」なのだ。だからこそ、父は少年の作文にうちのめされる。

で、そのことばというものは、どういうものか。
156ページ。

一つにとけあった私達の状態は言葉の矛盾を犯さないと表現できないわ。

「矛盾を犯す」かわりに(?)ジョサは、複数の視点を並置、交錯させることで世界を立体化する。
その手法は、この短編でも活用されている。