嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(108) | 詩はどこにあるか

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* (十月の高い空の下にのびている私の道)

落下が私を永遠にのみこんでしまう道
でも
私はそこにひかれる

 「でも/私はそこにひかれる」と言い直しているところは散文的だが、散文的だからこそ直前の「落下が私を永遠にのみこんでしまう道」が強烈に復活してくる。
 「落下」ならば「穴」なのに、「道」。その奇妙さのなかで、「のみこむ/のみこまれる」と「ひかれる」がひとつの動詞のように動く。
 「落下(する)」は自動詞だが、「のみこまれる/ひかれる」は自動詞ではなく「受け身」。自動詞/他動詞だけではなく「態」が変わっている。
 いや、これは「落下が」と「私は」という「主語」の交代というところから見ていくべきなのか。
 「文法」で説明しようとするとめんどうなものが、ことばを制御している。このことばを統合している「めんどうなもの」が詩である。




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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
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