フェデリコ・フェリーニ監督「甘い生活」(★★★★★) | 詩はどこにあるか

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フェデリコ・フェリーニ監督「甘い生活」(★★★★★)(2020年11月13日、KBCシネマ1)

監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 マルチェロ・マストロヤンニ、アヌーク・エーメ、アニタ・エクバーグ

 この映画のラストシーンは好きだなあ。
 海岸で巨大なエイが引き上げられる。それは巨大さゆえに美しいとも醜いとも言うことができる。ちょうど、この映画のほとんどで繰り広げられる「甘い生活」のように、私のもっている感覚を超越している。自分のついていけない世界については醜悪と拒否することも、甘美とあこがれることもできる。どちらにしろ、それは存在を「認識」だけであって、「体験」するわけではない。特にそれが映画のなかの世界ならば、なおさらだ。だから、何とでも言うことができる。醜悪といっても、甘美と言っても、私がそのことばを口にすることで私自身は傷つかない。その後のことばの展開に何も影響を受けない。いつでも表現をかえることができる。実感ではないのだから。肉体でつかみとった「事実」というものは何もない。
 でも、そのあと。ひとり仲間(?)から離れたマルチェロ・マストロヤンニに河の向こうの少女が何かを言う。聞こえない。何を言われたかわからないままマルチェロ・マストロヤンニは仲間といっしょに引き上げる。それを見送る少女の顔のアップ。
 少女はマルチェロ・マストロヤンニを知っている。手伝いに行った保養地(?)のレストランのテーブル。マルチェロ・マストロヤンニはタイプライターで小説を書こうとしている。少女は音楽が好きで、ジュークボックスを鳴らす。歌を口ずさむ。マルチェロ・マストロヤンニは音楽を止めろ、と言う。そこから短い会話がある。少女はそれを覚えている。マルチェロ・マストロヤンニはどうだろう。覚えていないかもしれない。マルチェロ・マストロヤンニが関心があるのはセックスの相手としての女だからだ。
 このシーンが印象的な理由は、ここにある。
 マルチェロ・マストロヤンニの知らないところで、だれかがマルチェロ・マストロヤンニを支えている。そして、その「支え」のなかには、ラストシーンの少女のような存在もある。明確に気づいていないけれど、気づいていない何かが影響してくる、というものがある。「支え」と書いたが、言い直せば「影響を与えてくれる」ということである。
 たとえば、それはモランディを愛し、パイプオルガンを弾く友人かもしれない。映画のなかで、その友人とは「数回会ったことがある」というセリフが出てくるが、数回でも深く影響する何かというものがある。(少女とは何回会ったか知らないが、たぶん映画にあるレストランのシーンの一回だけだろう。)あるいは、田舎に住んでいる父かもしれない。父だからひっきりなしに会っていたはずである。非常に影響を受けいているはずである。しかし、マルチェロ・マストロヤンニはその影響を受け取ろうとはしない。むしろ拒絶しようとしている。そういうときも、「無意識」のなかを動いている「影響」はある。それはマルチェロ・マストロヤンニを「支え」ているはずである。
 わかることとわからないことがある。そのなかで人間は、その日そのときの欲望で生きている。「甘い生活」におぼれるのか、「苦い生活」を生き抜くのか。どちらが「正しい」ということはない。「判断保留」を生きる。そういう生き方そのものが「甘い」のかもしれないが。まあ、そういうことは、いってもはじまらない。
 そして、人間は、こういう「影響」を与えてくれたかどうかさえわからない人間のことは、どうしても忘れてしまう。ひとは「影響」を受けたい、「影響」を受けて自分自身を変えてしまうことを夢見る存在なのかもしれない。
 象徴的なのが、「マリアを見た」という兄弟のエピソードである。「マリアを見た」という体験を共有したいと大勢のひとが集まってくる。マリアの「影響」を受けることで、自分自身の生活を変えたいのだ。「奇跡」にすがりたいのだ。でも、「奇跡」なんて、起きない。突然降り出した雨のために、体の弱っていた老人(?)がひとり死ぬだけである。マリアの助けを求めてやってきかたひとが、マリアの奇跡には遭遇せず、雨に濡れて死んでいく。
 現実というものが、こんなふうに首尾一貫しないものならば、どうやって生きていけばいいのだろう。こういうことを書き始めると「意味」になってしまうので、私は書かない。ちょっと考えた、という「経過」だけを書いておく。
 私は、この映画に出てくるような「甘い生活」というものを知らないので、もうひとつだけ、私にとってなじみやすかったシーンを書いておく。冒頭のキリストをヘリコプターで運ぶシーン。いわば、こけおどし、のシーンだが、ビルの壁にキリストの影が映り、その影がビルの壁をのぼるようにして空に消えていく。この1秒足らずの映像が美しい。フェリーニの狙いがどこにあったか知らないが、私はこのキリストの影のシーンが撮りたかったのだと信じている。アマルコルドの孔雀と同じで、影のシーンが絶対必要なわけではない。それがなくてもキリストを運んでいることはわかるのだから。でも、だからこそ、そのシーンがフェリーニには必要だったのだ。
 さらに。ヘリコプターにはマルチェロ・マストロヤンニが乗っている。彼と屋上(?)で日光浴をしている女たちが会話をする。ラストの少女との会話のように、互いに言っていることばは聞き取れないのだが。ただし、「大人」の会話なので、何を言っているかはテキトウに判断することができる。「デートのために、電話番号を聞いている」とかなんとか。少女とマルチェロ・マストロヤンニとのあいだでは、そういう「テキトウな想像(自分の欲望)」にあわせた「意味」というものは存在しなかった。このときの、女たちの「腋毛」。剃っていない。その、なまなましい自然。
 このなまなましい自然から、少女の純粋な自然までの「間」。そこにゆれ動くマルチェロ・マストロヤンニ、というふうに見ることのできる映画でもある。フェリーニの映画では、男は一種類(女の気持ちがわからないのに、女に持ててしまう優柔不断な美男子)なのに、女の方は今回の少女やジェルソミーナの純心からアニタ・エクバーグの肉体派、あるいはジュリエッタ・マシーナの素朴からクラウディア・カルディナーレの美貌、アヌーク・エーメの神秘まで、振幅(?)が大きい。でも、フェリーニは最終的には「純真」を選ぶということなのかなあ。最終ではなく、それは出発点ということなのかもしれないけれど。
 福岡(KBCシネマ)でのフェリーニ祭は9本ではなく6本の上映。私は「道」を最後に見ることになる。私が最初に見たフェリーニだ。フェリーニへの「初恋」だと思うと、見る前から胸がときめく。