フェデリコ・フェリーニ監督「8 1/2 」(★★★★★) | 詩はどこにあるか

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監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 マルチェロ・マストロヤンニ、クラウディア・カルディナーレ、アヌーク・エーメ、サンドラ・ミーロ(2020年11月09日、KBCキノシネマ、スクリーン2)

 KBCシネマで「生誕100年フェデリコ・フェリーニ映画祭」が始まっていた。一日一本、一回かぎりの上映なので「甘い生活」「道」は見逃してしまった。(気がついたら上映が終わっていた。)
 この映画で私がいちばんおもしろいと思うのは、「視線」のとらえ方である。冒頭、渋滞する車の中でマルチェロ・マストロヤンニが息苦しくなる。それをまわりの車からひとが見ている。それぞれ孤立している。孤立しているのに、すべての視線がマルチェロ・マストロヤンニに集中する。いや、集中しない視線もあるが、その視線でさえ見ないことでマルチェロ・マストロヤンニを見ている(意識している)と感じる。象徴的なのが、バスのなかの「顔のない乗客(顔が隠れている)」である。「視線」がないことによって、観客の「視線」をマルチェロ・マストロヤンニに集中させる。マルチェロ・マストロヤンニは車を脱出し、凧のように空を飛び、凧のように地上に引き下ろされる(引き落とされる)が、私はそのとき観客としてマルチェロ・マストロヤンニを見ているのではなく、スクリーンのなかの「誰か(描かれていない人間)」としてマルチェロ・マストロヤンニを見ている。マルチェロ・マストロヤンニ自身として、マルチェロ・マストロヤンニを見ているような気持ちにもなる。(これが最後の「祝祭」のシーンで、私もその踊りの輪の中に入っている気持ちにつながる。)
 最初の方の湯治場の描写も同じである。多くの「名もないひと」がマルチェロ・マストロヤンニを見つめる。その「視線」がなまなましい。「名もないひと」の不透明な肉体が「視線」のなまなましさの奥に感じられる。マルチェロ・マストロヤンニは「見られている」。そして同時に、「生もないひと」を見ている。しかも、なんというのか、「見る欲望」を見つめていると感じる。「名もないひと」は「見る」ことで何らかの欲望を具体化している。簡単に言い直せば、マルチェロ・マストロヤンニを見てやるぞ、という感じかもしれない。
 これは単にマルチェロ・マストロヤンニが有名人(映画監督という役どころ)だからではなく、人間はだれでも目の前にいる誰かに何かを感じたら、それを見てしまうものなのだ。象徴的なのが、マルチェロ・マストロヤンニがクラウディア・カルディナーレの「まぼろし」を見るシーン。クラウディア・カルディナーレが見つめている。見つめることで何かを語りかけている。愛の欲望と言い直すと簡単だ。マルチェロ・マストロヤンニは見られているというだけではなく、愛の欲望の対象として見られている(誘われている)と感じる。クラウディア・カルディナーレの視線は、それほど強烈である。
 ほかの女優たちもマスカラや眉を強調することで、「視線」のありかをはっきり知らせる「化粧」をしている。顔を見せているだけではなく、「見ている」ということを見せているのだ。
 マルチェロ・マストロヤンニのまわりには大勢の女がいる。その大勢の女の中で、クラウディア・カルディナーレ(ミューズか)、アヌーク・エーメ(妻)の対比がおもしろい。ウディア・カルディナーレの「視線」は「見ているぞ」という感じで動く。目力が非常に強い。しかし、アヌーク・エーメは化粧の関係もあるのかもしれないが、「視線」が「引いている」。なんというか、「引いた演技」をしている。「視線」だけではなく、もっと「肉体」全体でマルチェロ・マストロヤンニと向き合っている。そうか。こういう感じが「妻」なのか。長い時間をいっしょに生きてきて、「視線」だけではなく、手や足や、からだ全体の動き方で相手を受け止めている。何かを訴える、という「深さ」のようなものを感じさせるのか。
 もうひとり重要な役どころとしてサンドラ・ミーロがいるが、彼女は気晴らしの愛人か。「視線」がらみでいうと、「娼婦風に」といってマルチェロ・マストロヤンニが眉を描きくわえるシーンがおもしろい。
 マルチェロ・マストロヤンニはこの三人の間を、非常に無邪気に渡り歩く。マルチェロ・マストロヤンニの「子ども時代」を思い起こさせる少年が出てくるが、その「少年」のままの「こころ」が動いている。誰かに焦点をしぼり、そのひとと生きていく、という「決意」のようなものをつかみきっていない。それが「かわいい」といえば「かわいい」のかもしれない。けっして「汚れない」という感じ。純粋なまま、という感じ。でも、肉体はおとななんだよなあ。そこに、まあ、「苦悩」があるのかもしれない。
 まあ、どうでもいいんだけれど。
 マルチェロ・マストロヤンニには、何か、不透明になりきれない「純粋さ」のようなものがあるなあ、と感じた。
 それにしても。
 このころの映画というのは、いまの映画から見ると「絶対的リアリズム」を表現しようとしていないところが、とても新鮮だ。どこかに「リアル」があれば、あとは嘘でもいい。クラウディア・カルディナーレがはじめて登場するシーンが象徴的だが、「視線」さえリアルなら、歩き方(動き方)は逆に不自然でもかまわない。いや、不自然な方が「視線」を強調することになるから、おもしろい。ぜんぜん関係ないが、ハンフリー・ボガードの「動かない両手」のようなものである。両手を動かさず、突っ立っている感じなので、表情の微妙な動きや声の変化が印象に残るような感じかなあ。人間の「視線」さえつたわるなら、ほかの部分は「視線」を強調するための「脇役」。この映画は、そんな具合にして撮られていると思った。