ファラド・サフィニア監督「博士と狂人」(★★)
監督 ファラド・サフィニア 出演 メル・ギブソン、ショーン・ペン(2020年10月17日、キノシネマ天神、スクリーン2)
「辞書作り」の苦労を感じたくて見に行ったのだが、肩すかしを食った感じ。
ショーン・ペンが「ことば」にのみこまれていくのは、「ことばを読んでいるとき、自分が救われる」というような言い方で表現されている。そして、「本のなかのことば」を読んでいたときは、確かにそうだったのだが、「現実のことば」に直面すると救われるどころか、もっともっと深い苦悩に引き込まれていく。「ことば」を「現実」(自分の肉体)で定義しようとすると、どうしていいかわからなくなる。ここが、この映画のクライマックスで、こういう「矛盾」のなかに潜む「絶対的真実」(一回かぎり、その人かぎり)を具現するには、やはりショーン・ペンが必要だったというともわかる。
こうした「ことばを超えた絶対(一回かぎりの真実)」をどうやって「ことば」としてとらえ直し、「現実を定義するか」。言い直すと、ことばはどうやってことばになるか。この哲学的問題を考えるには……。
あ、あ、あ、あ。
私は「英語」がわからないのだった。「字幕」にはアルファベットと日本語が交錯して映し出されるが、ここはどうしたって英語そのものの「来歴」というか「歴史」がぼんやりとでも感じられないと、起きていることが実感できない。
困ったなあ。
ここがクライマックスだぞ、ということはショーン・ペンの動きと、それを補足する「日本語字幕」で「ストーリー」としては理解できるが、その「ストーリー」に私の「肉体」が重ならない。言い換えると「感情移入」できない。
英語が母国語の人なら感じるに違いない「ことばの響き(深み)」が、私の頭のなかを素通りしていく。かすめる、という感じすらしないのだ。
まいったなあ。
だからね、逆に言うと。
その「クライマックス」よりちょっと前の、ショーン・ペンの人生をほんとうの苦悩に引き込む女性が、「文字が読めない」とわかった瞬間、それに対するショーン・ペンの説得というか、励まし、その後女性が文字を覚え、読めるようになっていく、ついには「ことばをこえることば」(深い真実)を書くようになるまでの、なんというか、「さらり」とした部分が、とても私の「肉体」には響いてくる。実に、実に、実に、せつせつと感じられる。
場違いを承知で書くと、石川淳や森鴎外の、「ここはちょっと簡単に書いておくね。あとで必要になる(伏線のはじまり)なのだから」という感じの「(映画)文体」になっている。
あ、ショーン・ペンのことばかり書いたが、一方のメル・ギブソンにも妻との愛の葛藤、家族への愛と「学問」への愛の両立というような問題が起きるのだが、その苦悩のなかに「ことば」はあまり重要な要素としては入ってこない。なんというか、「謎解き」というか、「頭脳の解釈」で完結しているように思える。これは、私が英語がわからないということと原因があるかもしれないが。
で、また、ショーン・ペンの逸話にもどるのだが、「ことば」を覚えるということはとても危険なことなのだ。とくに「ことば」を書くということは。知らなかった自分を発見し、その知らなかった自分になってしまう。そうするともう、その知らなかった自分を信じて、それについていくしかない。「ことば」を生み出しながら、「ことば」に導かれ、「ことば」についていく。
辞書には。とくにこの映画が題材としている「オックスフォード英語大辞典」には、そうやって「肉体(生活)」に定着してきた「ことば」の歴史(変遷/つまり揺らぎ)が書き込まれている。そのうちのなんとかということば(私はもう忘れてしまった)には、ショーン・ペンの逸話がなければわからないものがある。いや、それよりも重要なのは、この映画では「見出し言語」としては紹介されていないが、たとえば「love(愛)」というだれもが知っているようなことば、日常語になりきってしまっていて、その意味を真剣に考えることのないことばにも、それがいままでの「愛」の定義ではとらえきれないものが隠れているということを教えてくれる。
こんなふうに感想を書いてしまうと、とてもいい映画、みたいになってしまうが。
これはね、これはこれで、ことばの「罠」なのだ。ことばは「書きたい」と思っていることを書くとき、その他を切り捨ててしまう。その結果、「結論」がどうしても「結晶」してしまうということが起きる。
「異端の鳥」は大傑作であるけれど、たったひとつ、通俗映画そのものに通じるエピソードのために台無しになってしまっている。この「博士と狂人」は逆に、たったひとつ、ショーン・ペンが女性の「弱点」のようなものに気づき、それを女性が「弱点」であると認識し、自覚を持って越えていく、その「超越」の向こうになにがあるかわからないが、それについていくことからはじまる「破滅」が映画を駄作から救い出している。ここだけなら、まるでギリシャ悲劇だ。
でもね、★はやっぱり、2個のまま。肝心の「英語」がわからない。英語がわかるようになれば★4個かも。
**********************************************************************
★「詩はどこにあるか」オンライン講座★
メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。
★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。
お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com
また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571
**********************************************************************
「詩はどこにあるか」8月号を発売中です。
162ページ、2000円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168079876
*
オンデマンドで以下の本を発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com