そのころ、少し薄手のズボンを履いてきたことばは、別の場所にいた。横には、ネクタイをゆるめ、風を胸に入れるのが好きなことばが、シャツのボタンをはずしていた。「胸毛に気づくだろうか」。目が、ちらりと横に動いた。しかし、少し薄手のズボンをはいたことばは「ああ、こうやって誘うのが好きなのか」とは思わずに、風を胸に入れるのが好きなことばが予想していなかったふうに動いた。昔の野の風景を描写するしたのだ。少し薄手のズボンをはいたことばは、ただ「水に映った枯れ草の色が黄色だ」と言った。そのとき、とんでもないことが起きた。少し薄手のズボンをはいたことばは、水の色が深くなるのを感じたのだ。そして、その枯れ草と水の風景が、ことばの奥に広がっていくのを感じた。そうしたことをことばにして語ることは、何を意味するだろうか、と考えた。ということを、風を胸に入れるのが好きなことばは、シャツのボタンをはめ、ネクタイを整える姿を、衣装ダンスの小さな鏡に映っているその姿を見ている少し薄手のズボンを履いてきたことばは言った。少し薄手のズボンを履いてきたことばは、これからもつづくのだろうか、それとも今回限りだろうかと思った。それは「これからもつづけたい」なのか「今回限りにしたい」のかという自問なのだが。
「何を考えている」と問われて、「何と答えようか」と考えたとき、嘘は相手をだますためのものではなく、自分をだますためのものだと、突然、気づいた。これは、少し薄手のズボンを履いてきたことばが久しぶりに知った「真実」だと言える。
断絶と飛躍は、意識の乱れ、ことばの運動の乱れではなく、論理と感情がことばの統帥権をめぐって争うときに怒るものである。このことばを、少し薄手のズボンを履いてきたことば、シーツにくるまったまま、足で下着を探すときに言ってみたい気持ちになった。そのためには「また会いたい」と答えなければならない。