ユリア・フォン・ハインソ監督「旅の終わりのたからもの」(★★★)(2026年01月20日、キノシネマ天神、スクリーン3)
監督 ユリア・フォン・ハインソ 出演 レオ・ダナム、スティーブン・フライ
ニューヨークに住む父と娘が、父が収容されていたアウシュビッツを訪ねる。そのロードムービー。
いろいろなことが語られるが、父が語る思い出が、やはり重い。
アウシュビッツに列車でついた、その場所。なんの目印もない。しかし、そのなんにもないところから、父は、その場所を特定する。線路をみつける。
煙突と土台だけがのこっている建物の跡。そこでも父は、この場所、という。それから自分がどこで寝ていたか、そのとき扉はどこにあったか。冬の冷たい北風が吹き込んでくる扉の近くのひとは、どうなったか。
父は、娘に語ってこなかった。しかし、その場所に触れて、どうしても語らずにはいられない。つらいから語りたくない。しかし、語らずにはいられない。思い出したくない。しかし、思い出さずにはいられない。
なぜなんだろうか。
たぶん、それが「愛」というものなのだ。
これは、直接的にではなく、間接的に語られる。
娘は、離婚している。(あるいは正式な結婚ではなく、同居していたが、いまは分かれて暮らしている。)その男のことは思い出したくない。でも、思い出してしまう。電話をかける。しかし、声を聞いて切ってしまう。絵はがきを書く。しかし、それは投函されない。その「ゆらぎ」のなかに、愛がある。
かつて父が住んでいた場所には、いまはポーランド人が住んでいる。そこで、父は、家でつかっていた銀の皿をみつける。コーヒーカップとポットをみつける。忘れることができない。きっかけは、カウチだった。カバーがかけられていて、すぐには気がつかないが、肘掛けに手が触れて、その感触から思い出すのだ。銀の皿もコーヒーカップも「形」というよりも、やっぱり手の記憶だろうなあ。
思い返せば、たとえば線路。それを父は足で土をほじくって探し出す。煙突のある暖炉。その暖炉のレンガに触って、この感触だ、間違いない、と確かめる。
愛とは、肉体が覚えているものなのだ。肉体は、愛があったこと、愛を生きたことを覚えている。
それは父の父のコートでも語られる。娘は、そのコートが祖父のものであることを、コートに刺繍された名前から理解する。しかし、父は、手触りから、それが父のものであることを確信する。
ナチスの犯罪を、ただ追及するだけではない。
肉体の問題として、この映画は「告発」している。
たとえば、ヒトラーによって殺されたユダヤ人は、もう、なつかしいお菓子を食べることができない。ダイエットしているはずの娘が、最後の方で、父といっしょにポーランドの伝統的なお菓子を食べる。食べる喜び。生きている喜び。肉体の喜び。それを奪ったのが、ナチスのホロコーストである。
肉体の喜びは、ほかにもいろいろなバージョンで語られるが、「食べる」をとおして、最後にもういちど語られるのがとてもいい。食べることも、愛である。暮らすこと、生きることが、愛である。
このお菓子を食べるシーンからあとは、もう涙でスクリーンが見えなくなる。映画は、そして、スクリーンが見えなくてもいいような、とても静かな終わり方をする。見ているときは、感動、感動、また感動という印象ではなく、ひとつひとつのシーンを思い出して書こうとすると、じわじわと涙があふれてくる映画である。
前後するが、娘が足に数字を自分で入れ墨しようとしている。ユダヤ人が刻印された番号。それを追体験しようとしているのかもしれない。なんとか、両親の「肉体」を追体験しようとしている。そういうシーンにも、この監督が、「歴史」を肉体として引き受けようとしている姿勢がうかがえる。