詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 「チェホフのカモメのなかにいたことばは、リュドミラ・サベリーエワを待っていたのだろうか」。小倉金栄堂の本棚から取り出した本の間から、ことばの書かれた紙がこぼれ落ちた。カモメの羽根のように。冬の海。風が強い。風に逆らって飛ぶカモメは、開いた本のページの真上から脱出できない。動くことはない。映画は、そのシーンからはじまった。風にあおられつづけるカモメの翼の内側から、疲れてしまった白い羽毛がちぎれる。冬の光を集め、雪になる。荒い波が飲み込む。詩はそうつづいていくのだが、北陸の海辺で、ことばは何になりたかったのだろうか。「リュドミラ・サベリーエワの青い瞳はナターシャのまま濡れているはずだが、モノクロの映画ではわからない」。詩のことば、リュドミラ・サベリーエワの声は、カモメの鳴き声に消えていく。要約すれば、そんな映画だった、と解釈は言い、注釈は「岬の断層の色は初雪の日に灰色が青く輝く」と書きたかったのだが、編集者の助言によって削除されたと付け足す。「イメージが散らばりすぎて、外国語を聞いているようだ」。だが、だれも知らないことばでしか話すことのできない孤独があるのだとしたら、それこそ必要な一行ではなかったかと、破棄された詩の記憶のなかで、リュドミラ・サベリーエワは思う。ひまわりを隠してしまった雪のウクライナの平原で、マルチェロ・マストロヤンニの重い体をひきずりながら。カモメにはなれずに。