細田傳造「堡塁」ほか(「雨期」85、202508月30日発行)
細田傳造「堡塁」の書き出し。
孤塁を守備している
トーチカの窓辺に伏して敵影を探す
銃は離せない
戦爭はしているのだ
孤塁死守援軍を待つ
生存する兵員本官壱となり
「戦爭」と旧字体の「爭」がつかわれている。「壱」も、古くさい。「孤塁死守援軍を待つ」も古くさいのだが。まず「爭」を問題にするのは、あとの部分では「戦争はしているのだ」と、いま私たちがふつうに使っている字体が使われているからである。これは、意識的にしているのだと思う。
文字には歴史がある。ことばには歴史がある。そして、細田はこの「歴史」を忘れない。
ここに置いておきます
山形屋の配達カツ丼弁当が届く
兵站部からの飯配り女
おじいさん戦争は終わっていますよ
虚言を残して去った女 連合軍の間諜かもしれない
細田の「肉体(思想)」のなかでは「戦爭」と終わっていない。つまり、覚えている、ということである。これは、細田の一貫した姿勢である。「忘れない」。そして、細田は「孤塁を守備している」。
細田の詩が「おばさん詩」と違うのは、この一点である。
「手紙」の書き出し。
お変わりありませんか
自分は十一月からあの廃墟にいます
ちいさな窓際の寝台で横になって
森を見て過ごしています
この時刻午後四時ごろまで届く光の輪には
あの栗鼠たちの錯乱が見えます
空に向かって走って行くのと
谷に向かって走って行くのがいます
「あの廃墟」「あの栗鼠」。「あの」があるということは、その「あの」を知っている人がいるということである。「手紙」の受取人である。そのひとと細田は「あの廃墟」「あの栗鼠」は共有している。少なくとも、細田は忘れてはいない。「あの過去(歴史)」を。そして、思い出せと、静かにせまる。
もちろん、その「思い出せ」を拒否することはできる。
私は「手紙」の受取人ではないから、拒否するもしないもないのだが、この静かな「せまり方」に考え込んでしまう。
細田のことばに「存在感(実在感)」があるのは、そこにいつでもけっして消え去らない「過去」があるからである。
「あの」は、最後に、もう一度出てくる。
あの蝶々爆弾ことですが 完成しました
あとはチンダレが咲くの待つばかりです
お元気で
「あの蝶々爆弾のことですが 完成しました」「あとはチンダレが咲くのを待つばかりです」ではない。この「舌足らず」は意識的か、無意識的か(誤植か)。判断が難しいが、私は「戦爭」と同じように、意識的だと考える。
だれにでも、忘れてはならない「あの」がある。その「あの」を持ち続けることが、「思想(肉体)」を前へ運ぶ力である。「過去」へ引き返すのではなく、「過去に引き返さない(前へ進む)」ための「肉体の鍛え方」である。
細田の詩は、いつも美しい。