伊藤芳博「手も足も出ない」(「59」37、2025年11月10日発行)
朝日カルチャーの講座で、受講生といっしょに読んだ。受講生のひとりにコピーを渡し、読んでもらった。
そのとき、とてもおもしろいことが起きた。この詩に「おもしろいこと」という感想は不適切な表現かもしれないが、ほんとうにおもしろかったのだ。
パレスチナの手話ではどう表現するのだろう
ガザの聾者ワエルさんは
2025年2月 爆撃で片手を失った
手話でコミュニケーションをとるワエルさんにとって
手を失うことは言葉を失うことだ
コミュニケーションはどうするのだろう
片手では
半分くらいは伝わるのだろうか
わたしは……
残された片手で愛をどのように伝えるのか
あなたがたは……
失われた片手で憎しみをどのように表すのか
父親ハーシム・アブガザレさんは
ガザの聾者のゴッドファーザーと呼ばれた人
障害のある人々の神も父も
そしてマザーも吹き飛ばされた
娘のニダは足を負傷し ワエルは片手を失って
残された
日本の手話で
両手の親指と人差し指の指先をくっつけて
目元から頬にそって交互に下ろす
片方の手で流す涙は
哀しすぎる
ガザに残された手と足と
ガザで失われたもう片方の手が
異国のような星の人たちに
なにか語ろうとしている
受講生は、ここで自然に読み終わった。プリントがそこで終わっていたからだ。しかし、実は、2ページ目があった。あと4行ことばがつづいていた。
あなたがたは……
父から学んだパレスチナの手話で
わたしたちは……
手も足も出ない と
なぜ、受講生は、そこで読み終わったのか。2ページ目があると知らなかったからだ。ことばがつづいていると知らなかったからだ。2ページ目の4行を読めば、そこに伊藤の言いたかったことが集約されていることがわかる。「タイトル」のことばが、最終行に出てくる。伊藤は、この一行のために、それまでのことばを書いてきた。でも、2ページ目があると気がつかなかった受講生は、1ページだけで読み終わった。
なぜか。
2ページがなくても詩が完成しているからだ。あった方が、もちろん、「意味」は強くなる。しかし、なくても、伊藤が書きたいだろうことは、よくわかる。「手も足も出ない」ということばは、書かれていないが、それが書かれていないことに気がつかないくらい、受講生は一行一行、一連一連に引きつけられ、こころを動かされ、受講生の意識のなかでは「手も足も出ない」ということばが鳴り響いていたのである。
詩を読み返してほしい。
最初の一行だけでも、こころを揺さぶるものがある。その問いかけにこたえようとすると、こころが、肉体が苦しくなる。
2連目で終わってもいい。
3連目で終わってもいい。
4連目で終わってもいい。
どこで終わっていても、私は、読んだばかりのことばの前で立ち止まり、もう一度最初から読み、自分なりの「こたえ」を探すだろう。「こたえ」は、ことばにはならない。「こたえ」はたぶん、伊藤のことばを、ただ受け取るだけである。
感想は、いらないのである。
感想がなくても、感想がつたわる、というか、伊藤と「こころ/肉体」を共有した気持ちになる。
6連目、「日本の手話」が出てきたところで、私は、自分なりにその手の動きをやってみる。片手なら、どうなるだろうか、と思ってみる。片手でも悲しみは伝わるのか。片手の方が、両手よりも悲しみが伝わるかもしれない。両手で伝えるはずのものが、片手でしか伝わらない。伝えきれないものが「肉体」のなかに残り、いっそう悲しくなるかもしれない。
そんなことを思う。
どの行も、まったく無駄がない。必要なことばだけで存在している。それは、その瞬間瞬間に「完結」しているということである。
こういう詩は、非常に珍しい。
どうしても「結論」が言いたくなる。この詩にも「結論」の部分はあるのだが、それは、実は「結論」ではない。ほんとうに言いたいことは、それだけではない。もっともっと、言いたいことがある。悲しみ、怒りに終わりはないのだから。
ことばは、動けるところまで動いて、そこで「仮に」終わっているだけなのである。
詩は、詩だけにかぎらないが、ことばは書けるところまで書けば、それでいい。その先は、もし読者が感動すれば、読者が詩人のことばを引き継いで、書きつないでくれる。
私のこの感想は、そういうもののひとつである。
感動すると、そのあとを書かずにはいられないのだ。
私は、講座のとき、「意味」は言わない。作者が言いたいこと、書きたいことを「要約」はしない。ただ、受講生の「感想」を引き出したい。受講生と「感想」を語り合いたい。読んだあと、自分のことばがどこまで動いていくか、それを確かめたい。
私は、ことばを読んだとき、私の「肉体」のなかで起きたことを語りたい。受講生からは、受講生のことばが、どこまで動いたか、それを聞き出したい。
今回、この詩を朗読してくれた受講生は、受講生の「肉体」のなかで起きたことを「肉体」そのもので表現してくれた。伊藤のことばは、どこで終わっていても、読者を立ち止まらせる。そのことを具体的に教えてくれたのである。
こういう詩は、めったにない。ほんとうに、すばらしい詩だと思う。この詩に、「すばらしい」という感想がいいのかどうか、わからないが。そんなことばをつかってしまうと、ワエルさんに申し訳ないという気持ちになってしまうのだから。
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