詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

池井昌樹『理科系の路地まで』(34)(思潮社、1977年10月14日発行)

 「5.15 fantasy」は散文詩である。池井にしては、めずらしい形式である。

こやすがいというばけものは黒い肉で 官営医院の石段
のたもとでは いつもつくねんと 蹲ってた 母に肉は
無く 皺の固まりであった すいとろおんという街の白
夜に 僕は遺児たちと とおく 桜の霞んでみえる 望
楼館まで旅をし 遠慮ぶかく 油に浸った 

 とはじまる。「こやすがい」は何かわからないが「ばけもの」と言いなおしている。そういう怪しげなものと「官営医院」という、一種の権威(正しい)ものがぶつかりあって「ファンタジー」がはじまる。しかし、それがほんとうにファンタジーかどうかはわからない。
 その途中に、

年下の姉は

 という池井にしてはとてもめずらしい表現がある。秋亜綺羅ならいつでもつかう「文法破り」だが、池井は違った種類の「文法破り」が多い。

                  ああ なんてき
たない原色だ まるでいきもののような色した木の実か
花かわからないものが 畸形の植物の葉の裏で しずか
に佇んでいるではないか ひっそりした雨後の 耳の生
るくになのだ もう此処は

 この部分の「きたない原色」のような表現が、池井の特徴だと思う。

 「理科系の路地」。巻末の作品。他の作品から一年半近くの「空白」を挟んでいる。
 一冊をとおして読むと、詩を書く喜びから、詩を書く苦しみに変わっていく過程が感じられる。苦しいけれど、書かずにはいられない。それは苦しむことさえ、池井には喜びだからである。

僕 例へば
ひすてりやに染めた血筋をひきのばしながら
まぶたをひらき
みずかきのあうら ぎょぎょひろげ
水棲の路地から路地へ
耳上で成る油いろの電線をひっかきながら
訪ねあるいた気がしてならない

今晩は
眼病医院 こちらです?
内臓物医 こちらです?

 このリズムは、この詩集の最初のころのリズムに似通っていると思う。「理科系の路地」の前に「水棲の路地」がある。これまでは「水棲の路地」であり、これから池井はかわろうとしている。

みずたまりにゆれる病気くさい灯泥を濁し
いたるところに進化いぜんのあしあと残し
訪ねあるいた気がしてならない

 「進化いぜん」は、「いまではない/いまよりいぜん」という意味だろう。そして、それは「人間以前」ということになるだろう。「人間以前」とは何か。池井にとっては「詩人」である。それを確認しているのが、この詩である。
 この詩集である。