話は長い。
友達のマツモトくんは、私と同い年。
マツモトくんには兄上がひとりいるらしい。
この兄弟はどちらも優秀で、文武両道。
兄上はかつて陸上選手、弟はボクシング部だった。
それぞれ今は、兄上は薬剤師だそうで、弟は税理士である。
兄上と大変仲が悪いという話を、私はマツモトくんから長い友達づきあいの中で聞いている。
仲が悪いというのは、正確ではない。
だって、もう数十年もクチをきいていないそうだから。
マツモトくんが中学生くらいのときに喧嘩し、「コッチ」が「アッチ」を無視しだして、それっきりだそうだ。
原因は忘れた。
「男同士のきょうだいなんて、だいたいそんなものでしょ。」
そうなの?私には男兄弟のことはわからないが。
ーでさ、今週、何十年かぶりに「アッチ」に電話したんだよ。
ー「アッチ」?ああ、お兄さんのこと?
ー「オヤ」が倒れてさ、
え?ギョッとする。マツモトくんは母上と2人で、ご実家で同居している。
ー今週!?大丈夫なの?
ーうん、「オヤ」は入院中。却って安心だよ。
マツモトくんがいうには。
「オヤ」が倒れたことは、さすがに「アッチ」に伝えねばと思ったそうだ。
でも、「アッチ」の電話番号なんか知らない。
幸い、イエデンの引出しに「オヤ」の手書きの電話ノートがあった。
市外局番は隣県の県庁所在地だった。
「はい。」と幼い子供が電話に出て、マツモトくんは焦った。
兄に子供がいるのは、情報としては知ってる。
生まれたとき、「オヤ」に言われて祝い金を包んだから。
毎年、盆と正月に、兄一家はうちに遊びに来る。
家の中が騒がしく、母は嬉しそう。
兄一家がいる間は、マツモトくんはトイレ以外は決して自室から出ない。
家庭内かくれんぼか!
きょうだいのことはわからないが、やや不器用な印象である。
兄の子?もう電話に出るような年齢?
独身のマツモトくんは戸惑う。
「あの、マツモトですけど。」
叔父たるマツモトくんは、名前もわからぬ子供相手に、やや間抜けに名乗る。
兄一家も彼も、そして「オヤ」も、全員マツモトである。
「ええと、イチロウをお願いします。」
ママ―、パパに電話ー、マツモトだってー、と子供の声が筒抜けである。
「お電話かわりました。もしかしてジロウさんですか?」アニのツマが出た。
「ああ、はい、マツモトです。」だからさ、みんなマツモトだってーの。
「ごめんなさい、イチロウさんはまだ帰ってなくて」
「それならお伝えいただきたいのですが、実は、オヤが。」
「えっ、たいへん!」
アニのツマは心配し、矢継ぎ早に「オヤ」の病状を尋ねる。
親戚一同への連絡をどうするかとも訊かれた。
マツモトくんはこれまで親戚間の連絡は全て「オヤ」任せだったので、ろくな返事ができない。
税理士としてのマツモトくんは、もっとコミュニケーション能力が高いはずである。
たくさんの顧客と円滑な人間関係を築き、篤い信頼を得ている。
こと家族関係だけ、なぜか子供っぽく反抗的になってしまうのだ。
「わかりません」「知りません」を繰り返すだけのマツモトくんに、アニのツマは「何かあったらすぐ知らせてください。」と、自分とイチロウ氏の携帯電話番号を書き取らせた。
幸い、マツモトくんの母上は小康状態を取り戻した。
マツモトくんは仕事の帰りに病院に寄り、駐車場でばったりと兄一家に出くわす。
マツモトくんは内心焦るが、無表情をキープする。
子供たちはマツモトくんが考えていたより、はるかに大きかった。
幼稚園くらいの男の子と女の子だった。
「コンニチハ」と恥ずかしそうに男の子がいい、マツモトくんはオタオタ、「どうも」などと口ごもる。
幼児相手に「どうも」って。と、話を聞いていた私は内心だけツッコミを入れる。
兄は、記憶の中の陸上選手だった面影はもうなく、太って禿げていた。
そりゃそうか。もうお互い、いい歳だ。
「どうも、先日は。」と、いい加減にアニのツマだけに言って踵を返そうとしたのに、アニのツマは「ジロウさん」と、はっきりとした声で彼を呼び止めた。
「あのね私、お義母さんに写真をプレゼントしたいの。ジロウさん協力して。」
は?マツモトくんはきょとんとする。
「今日会えてよかったわ。さあ並んで。」
え?
「すみません」
アニのツマは駐車場の警備係に声をかけて、自分のスマホを渡している。
「ほら、並んで。はやく。」きびきび命令される。
なに、どういうこと。
前列に、男の子、女の子。
後列に、ジロウ、イチロウ、アニのツマ。
これはいったいなんの茶番?
はい、チーズ。警備係の声がする。
「もう少し寄ったほうがいいな。」スマホを握った警備係め、なにか言ってる。
隣の兄が、半歩ジワリと距離を詰めた。
隣にいるこのコイツ、これは兄。俺の兄。
兄は決してこっちを見ない。俺だって見るものか。
目の下に、子供たちの小さなつむじが並んでいる。
このガキどもは、母の孫だ。で、俺の甥と姪なのか。
俺はいったいなにをしているんだ。
アニのツマめ、余計なことをする女だ。
マツモトくんはじっと耐え、アニのツマの「ありがとジロウさん。またね。」の声を背に、そそくさと逃げ去った。
またね、って何だ。
次の週、仕事帰りに母の病床を訪れたマツモトくんは、眠っている母の枕元に見慣れぬフォトスタンドを発見した。
手に取ってしまった。ああ見るんじゃなかった。
仏頂面の中年男2人。ピースサインで笑顔の女性と子供。
中年男2人は、コピペのようにそっくりだった。
前列のヨソのガキ2人も、コピペのように中年男たちにそっくりだった。
フォトスタンドは枕の横にあった。母は、眠りにつくまで見ていたのだろう。
病院の面談室で、母の退院後について相談をした。
マツモトくんは大きな決定をしなくてはならない。
ソーシャルワーカーは「ご家族で話し合って」などと言った。
そんなわけでマツモトくんは、病院の駐車場でエンジンもかけない暑い車内で逡巡している。
「アッチ」の電話番号を表示させたスマホを見つめている。
通話マークを押すのか。
これをポチっとすると「アッチ」が出るのか。
「ああオレオレ、ジロウだけど。兄ちゃん?」などというのか。
「マツモトですけど」と名乗るのか。