おはつさんは、明治13年1月15日生まれ。今から144年前。

中部地方に実在した女性だ。

 

写真が数枚、残っている。

ほりの深い、現代風の顔立ちだ。

だが、そのころの美女の基準とは違ったらしい。

「ギョロ目のおはつ」と呼ばれた。ぱっちりした二重まぶた。

 

おはつさんのお父さんは「注連吉」さん。しめきちさんと読むのだろうか。

お母さんは「よい」さん。

注連吉さんとよいさん夫妻の最初のお子さん。それで、「初」さん。

学歴はない。生涯、字は読めなかった。

えんぴつを握って、かなで書ける字は夫と子供の名前だけ。

自分の名は、「ハつ」と書いた。

 

おはつさんの生まれた村は、雪がどっさり降る。

山肌に少しの田畑。川魚。

現代でも、集落は山の中。くねくね県道が1本あるだけ。

 

生まれた村から、直線距離で17キロ離れた別のお山へ、お嫁に行った。

バスに乗って?

とんでもない。バスなんてなかった。歩いてお嫁に行ったのだ。

当時の地図を調べた。

徒歩なら山を廻り廻ってテクテクと、きっと2日はかかった。

 

ささやかな婚礼は、収穫が済んだ農閑期と決まっている。

雪が降る季節の花嫁さんは、寒くなかっただろうか。

おはつさん、23歳。当時のその土地では、やや晩婚である。

 

夫は、「袈裟松」さん。

けさまつさん、と読むのだろうか。

袈裟松さんは、おはつさんより5つ年下。18歳の花婿さんだ。

 

袈裟松さんという名は、その土地では、へその緒が体に巻き付いて生まれた子につけられるそうだ。

袈裟松さんは、弘化元年生まれの「源吉」さんと、「みき」さんの長男である。

 

袈裟松さん、おはつさんには8人のお子さんが生まれた。

そのうち5人が大人になれた。そんな時代だった。

 

お嫁に来たおはつさんは、夫とともに小さな農地を耕し、夫の父母に仕えた。

といっても、食べていくだけで必死である。

家族が仲間割れしては、生きていけぬ。

一丸となって働いて、今日のおまんまを手に入れるだけである。

おふたりは、せつない暮らしに飽き飽きした。

そして、大正5年。

源吉さんとみきさんの死を契機に、人生を賭けた大ばくちに出る。

 

ふたりは大胆にも田畑を捨て、子供たちを連れ、盆地の街へ移住したのだ。

なんの計画もなし。ただ、山から出ていっただけ。

着の身着のまま。

大八車にわずかな家財道具と幼児を全部乗せ、袈裟松さんがひっぱった。

エイヤエイヤと山道を徒歩で行く。

 

おふたりは、ついていた。

その街に、大きな工場ができたばかり。

袈裟松さんは下山するなり、ヒョイと雇われたという。

 

袈裟松さんはそろばんができたのだそうだ。

どこでそろばんを学んだか、子々孫々のどなたもご存知ない。

とにかく工場の経理掛になった袈裟松さんは、街の長屋の6畳と3畳の二間で、一家総勢7人家族で暮らした。

景気がぐいと良くなった。

やがて長男も二男も、同じ工場に勤めた。

 

昭和12年、袈裟松さんが57歳で亡くなった。当時としては、さほど短命ではない。

昭和17年、二男が出征した。

昭和19年、おはつさんは二男が戦死したと知らされた。

 

昭和24年9月17日。

戦死したはずの二男が帰ってくるという知らせが、まず電報で届いた。

今日、街の駅に着くという。

 

老いたおはつさんは、電報を読んでもらう。

腰が曲がって、杖をついたおはつさんは驚いた。

ギョロ目と言われた目を、更に大きく見開いた。

そして、杖を取り落とした。

おはつさんは、「お菊に知らせてやってくれ」と二男のお嫁さんの名を呼んで、駆け出す。

その場のひとが、驚いて追いかける。ぱらりぱらりと雨が降る。

 

駅までの1.3キロメートルを駆け抜けたそうだ。

腰の曲がったお婆さんが誰の言葉も聞かずヨタヨタ一心不乱に駆けたことは、その後数年、街の噂のタネになった。

 

あとから来たお菊さんとふたり、線路をにらんで突っ立って、列車を待ち続けた。

夜遅く、列車が着いた。

たくさんの人とともに、痩せたが生きている二男が降りてきた。

おはつさんは黙ったまま、お菊さんの背を、ぐいと二男の前に押しやった。

 

おはつさんは、翌年の初夏に自宅で亡くなった。70歳だった。

 

令和6年3月1日から、広域戸籍交付制度が始まりました。これにより、最寄りの市区町村窓口で直系尊属などの戸籍をまとめて取得できます。詳しくは、法務省のウェブサイトをご覧ください。

法務省:戸籍法の一部を改正する法律について(令和6年3月1日施行) (moj.go.jp)

古い戸籍からわかることがあります。ご親族の記憶と併せて、ファミリーヒストリーを辿りやすくなります。