【大神記4】大神信房と北畠顕家の絆 | 螢源氏の言霊

【大神記4】大神信房と北畠顕家の絆




このシリーズでは謎の武将・大神信房(おおみわ のぶふさ)についての手がかりを探している。

彼は今から676年前、南北朝時代に北朝・室町幕府との戦いに負けて、大阪の阿倍野で死んだ男。それ以上のことは不明。



(想像で描いた大神信房像。北斗の拳のシンがモデル)



しかし、なぜか気になる彼の存在。なにか魅力的なものを感じるといっても過言ではない。私は史料や史跡から手がかりを得て、奇想天外な観点から彼を探っている。

今回は小説風の進行もある。



当シリーズの過去記事。

【大神記3】歴史の封印を解除せよ!


どうやら大神信房たる人物は、歴史の勝者(北朝・室町幕府)にとっては、その存在を世に知られるとまずいらしい。だから信房は存在を隠され封印されているのだ。その封印&隠蔽の全貌をご覧いただこう。





1.阿倍野の三大龍王に封印



わかったのは遺体をバラバラにされたこと。信房は大阪の3ヶ所に埋められている。

総裁家の石宮龍王祠、万代池の古池龍王、桃ヶ池の丸高&丸長龍王。である。信房はこれら阿倍野の「三大龍王」に龍(=大蛇)として祀られ、封印されているのだ。

なぜ、大神信房はこんな惨い殺され方をしたのか?それは、彼が怨霊化する恐れがあったので封印したからである。ここまでは前回のおさらい。





2.大神信房は北畠顕家に仕えていた!



調べていくうちに、実は大神信房は北畠顕家に仕えていたことがわかった。

大神信房と北畠顕家にあったであろう絆。その関係を証明する証拠をあげよう。



共に1338年6月10日、大阪で戦死した南朝の武将。

(阿部野神社年表、大神神社系譜)


信房は阿倍野、顕家は石津で死んでいる。共に南朝のために散った二人なので、仲間だったと考えてよい。


1338年6月10日(延元3年/建武5年5月22日)、梅雨の出来事であった。なおここで取り上げる年日付は、現在の季節感で理解しやすいよう、全て西暦に換算してある。



顕家の戦没地が、信房が死んだ阿倍野にすり替えられている。



↑左:ニセモノ、阿倍野の北畠公園。左:ホンモノ、堺市石津の北畠顕家の墓。大阪に顕家の墓が2つあるという奇妙な事態に。


顕家は石津で死んだにも関わらず、信房の戦没地である阿倍野で死んだことになっている。『太平記』にもそう記され、阿倍野に顕家の墓が作られた。

周辺地域は北畠という地名がつき、阿部野神社には顕家親子が祀られるに至まで、偽造工作がなされている。無関係な人物同士をすり替えるとは考えにくい。



信房の子孫は代々、北畠氏に仕えている。

(大神神社系譜)


信房の子孫の三輪政泰と神山徳房を代表の、北畠氏に従っていたいたことが公式な記録に残っている。元来、北畠氏と縁があったと思われる。



大神氏と北畠氏は交友関係にあった。


特に顕家の父である北畠親房(きたばたけ ちかふさ)も、大神神社と密接な関係にあったことが記録に残っている。それを列挙する。



・1333年~1334年の間。北畠親房は、今出川実尹と大神神社に訪れ古典の参照をした。(大三輪神三社鎮座次第)

・1333年11月17日。顕家は正三位に任じられ、このころ大神神社に参詣する。(北畠親房公年譜)

・1341年春頃に、親房は『二十一社記』で、「大神神社は、国家擁護の神であり、非常時には特に拝むべし神である。」と述べている。

・1352年6月24日。親房と弟の北畠顕能が、後村上天皇を引連れて、大神神社に立ち寄った。そこから経由して賀名生へ向かった(三輪高宮家系)。






このネット全盛期に、大学の図書館に何度も出入りして調べたことなので褒めていただきたい(笑)



まず両家の間に密接な関係があったことは確かだ。身分を考えれば必然的に、公家の顕家が主君、神官の信房が家臣となる。

これだけ証拠がそろっていれば、信房は顕家に従軍し、天王寺の戦いや石津の戦いにも参戦して、阿倍野で戦死したと考えるほうが自然である。





3.黒幕・室町幕府の陰謀



信房と顕家を殺したのは、北朝・室町幕府(以下略:北朝)である。歴史の勝者となった北朝は、後に敗北した南朝の武将たちの存在を隠蔽して、偽りの歴史を『太平記』に記すなどして工作した。

そのうちの被害者の一人が信房である。黒幕である北朝は以下のような陰謀を画策した。



石津の戦いで顕家を殺害、阿倍野の戦いで信房を殺害。

信房の遺体をバラバラにして、3ヶ所に分散して封印。

顕家の戦没地を阿倍野にすり替えて、信房の存在を隠蔽。


殺害→封印→すり替え隠蔽。の流れである。
きっと黒幕たちはこんな会話をしていたのだろう。



黒幕1 「石津で南朝の北畠顕家の軍を倒したぞ。その家臣の大神信房も阿倍野で殺した。」

黒幕2 「ようやった。だが、信房はあの大神神社の神官。それに古代大王家の子孫だ。怨霊になる心配はないのか?」

「安心しろ。既に首は野原、胴体と下半身は2ヶ所の池に埋めて、蛇の神として祀らすように言ってある。怨霊も祀れば、守り神になるからな。」

「さすがじゃな。そなたに任せてよかった。あとは軍記に、顕家が阿倍野で死んだと書く。戦没地をすり替える。そうすれば阿倍野で死んだ信房の存在を隠せるであろう。」

「妙案だな。あい分かった!」





信房と顕家を倒したのは、高師直である。



将軍・足利尊氏の側近にして、室町幕府のNo.2。大胆かつ合理的な人物であるが、極悪非道な人物とも評される。



北斗の拳でいうジャギだろうか(笑)



一応は、ここでは師直を黒幕として扱う。大進撃して来た南朝の北畠顕家軍を食い止めるべく、大阪の天王寺・阿倍野や堺の石津で激戦を繰り広げ、最終的に顕家と信房を討伐している。





4.東北のカリスマ・北畠顕家の大進撃


信房が仕え、命をかけて共に戦い抜いた北畠顕家とはどんな人物だったのか?

戦国時代に例えるならば、伊達政宗と上杉謙信と武田信玄を足したような人物である(笑)とんでもない人物である。しかも美青年だったという噂も・・・



北畠顕家。文武両道の若き天才。大進撃の軍神。



顕家が戦死したのは20歳だった。なんと私とほぼ同い年である。鬼将軍といえども花将軍にはかなわない。若くして大活躍するほどの天才的な人物であった。

上杉謙信のように毘沙門天を祀り、武田信玄にさきがけて「風林火山」の軍旗をかかげ、東北の雄・伊達政宗も尊敬していただろう人物である。





そんな顕家は、東北から京都を目指して大進撃を行なっていた。10万の大軍とメチャクチャ強い騎馬隊をひきつれて、京都にいる宿敵・足利尊氏を倒すために進軍していた。





だが、既に足利尊氏は大勢の武士の支持を得ており、北朝の勢力は更に増していた。顕家は猛スピードで東北から近畿に入ったものの京都にはたどり着けず、大阪堺の石津の戦いで戦死した。

この一連の戦いに家臣である信房も従軍して、顕家と共に戦っていたとみられる。そして二人は同日に戦死している。信房は阿倍野で死んだが、顕家と信房のどちらが先に死んだかは不明である。


いずれにせよ、顕家の最期を知ることは、信房の最期を知ることでもある。彼らの軌跡を整理しよう。





5.大分裂の南北朝時代

(南北朝時代の勢力図。皇室、有力な武将など。)



ここで改めて、南北朝時代について振り返っておこう。状況把握のためである。

文字通り、日本が南(奈良)と北(京都)の朝廷に大分裂した時代である。戦国時代より悲惨だったと思う。なんせ日本がまっ二つに割れていたから。


簡単に言えば「俺、天皇な!」「いや、俺が天皇だよ!」という混乱した時代で、天皇が2人いた。もちろん「どうぞどうぞ」とはならない。


最終的には北朝が勝ったが、南朝も善戦していた。




南朝を率いるのはこの男。後醍醐天皇


かなりエネルギッシュかつアグレッシブな天皇だが、政治が上手ではなかった。南朝を建てたのも、南朝を負けに導いたのも後醍醐天皇である。


後醍醐「これまでは摂関家や武家が政治を行っていたが、これからは天皇であるこのワシが日本を統治する!




だが、南朝の主戦力だった楠木正成が死んだ。



天才的な武将だったが、湊川の戦いで北朝の足利軍に負けてしまった。彼は勝ち目が無いことはわかっており、天皇に北朝の足利と和睦することを進言したが、それは叶わず不本意の戦で戦死した。


正成「もはや我々には勝算なく、足利と和睦を結んだほうがよろしいかと。


後醍醐「いや、勝てるはずじゃ。ワシはそなたを信じとる。だから退くでない。

御意・・・




1336年7月4日 【湊川の戦い】



正成 「もはやこれまでのようやな…。みんなありがとうよ。しかし、、、帝に忠して、一族と心中する結果となってしもうた…。帝に従ったのが間違いやった! 七回生まれ変わっても、国を呪うことになるやろう。


そして楠木一党は自害。「七生報国」とは実はこのような意味だったのである。正成の死により、南朝の勢力は一気に削がれることとなる。




そんな中、足利尊氏が室町幕府を建てた。



尊氏は黒幕2。



1336年12月10日 【室町幕府設立】



尊氏「再び京都は占拠したので、弟が式目を発布しろと言っている。これにて足利の世が始まることを示すのだろう。朝敵になってしまうのは怖かったが、楠木も死んだし、これからは政権安定に尽力しよう。




1337年1月23日 【南北朝分裂】



後醍醐天皇は京都から脱出し、逃亡したな奈良の吉野で朝廷を開く。この時から南北朝時代が始まった。



後醍醐「京では足利が大きな顔をしているようじゃが、これからはここ吉野が都じゃ。



1337年1月27日。後醍醐天皇は東北の鎮守府将軍・北畠顕家に京都奪還を命令する。


後醍醐「顕家、そなたが最後の望みじゃ。西へ遠征してくれ。足利を討ち、京を取り戻すのじゃ。


北畠顕家「御意。されど、ここ奥州は敵に囲まれており、いますぐ征西はできませぬ。準備を整え次第、進撃を開始します。



顕家が拠点とした、福島の霊山城。






6.顕家の大進撃と信房との合流

(顕家の進軍ルートをGoogle Earthでマーキング)


信頼できる史料から推測し、顕家と信房の足跡をたどることにしよう。


1337年9月6日。ついに顕家ひきいる東北の大軍勢は、霊山城を出発した。北朝・室町幕府軍を倒し、京都を奪い返すためである。



顕家「よいか皆の者!これより西へ向かい京の足利を討つ!駆けるのだ!早さこそ強さなり。そして奥州に誉れを持ち帰ろうではないか!

軍勢「オ~!!



顕家、大進撃を開始



顕家の強行軍は猛スピードで征西した。まさに進撃の軍神の如く、次々と勝ち進み、わずか半年足らずで畿内に到達した。





~京都・室町幕府にて~


足利尊氏「なに!?もう奥州の北畠の軍勢が畿内に入っただと!?早すぎる・・・。いずれここ京にも来るのか・・・

高師直「そうはさせん。必ず、京の手前で食い止めよう。

頼んだぞ!なんなら顕家を討ち取ってもよいぞ。

任せておけ。


1338年3月13日。顕家軍は伊勢路を経由して、大和(奈良県)に入った。辰市・三条口(奈良市)で勝利し、大和を占拠した。あとはここから北上して、京都へ向かうだけだ。





だが、3月20日。京都から押し寄せた高師直・桃井直常・直信軍の迎撃により、顕家は般若坂(奈良市)で敗北し、行く手を阻まれた。


師直「ははは!顕家!貴様を京に入れる訳にはいかんのだ!

顕家「足利の犬め、ついに来やがったか!ここは一旦、河内・和泉に退いて、天王寺で体制を持ち直すしかあるまい!


敗北した顕家は、一旦は京都北上を諦めて東の河内と和泉(大阪)に入ることにした。まずは重要拠点である天王寺に布陣するためでもあった。




その道中、顕家は大神神社(奈良県桜井市)に立ち寄ったと推測する。


ここからは私の想像だが、奈良で戦力を削がれた顕家には、強力な大神氏の援軍が必要だった。顕家が大神神社の前を通過したことは確実であり、これが後に信房が阿倍野で戦死する理由を、最も合理的に説明できる筋書きだからだ。

1338年3月20日以後、顕家は信房の元を訪れた。



顕家「よう!大神の神官さんよ。久しぶりだな信房!

大神信房「ご立派になられましたな~顕家殿。5年ぶりか。京の足利を倒すために、はるばる奥州から参られたとか?

そうだ。もはや京は目の前なのだが、般若坂で派手にやられてな。その前に天王寺だけは抑えておきたい。ここでお主の力が必要なのだ。大神の神通力をみせてくれ。

四天王寺か~あそこは重要拠点や。北朝に渡す訳にはいかんな。それに俺ら一族こぞっての付き合いやからな。お力添え致そう!

それは心強い!感謝する。これより我と共闘し、南朝を支えよう。助言を頼む。

あいわかった!久々に腕を鳴らすか~。




(信房は奈良県民なので、もちろん関西弁。君臣関係というより、ダチっぽい感じをイメージ。)




こうして、大神信房の軍勢は顕家に加勢し、北畠・大神連合軍となった。そして、京都奪還のための第一要所となる天王寺を抑えるべく、大阪へ進軍を開始した。



次回、軍師・大神信房!?天王寺の大激戦!両雄、死す。