「少しあるのか、少ししかないのか」

コップ底の3mmぐらいの水に対して、「a little water」(少し、水がある)と、「little water」(水は少ししかない・少しもない)ととらえるかの違いは、否定文の感覚をつかむための例文だったように思います。

中学生の頃の私は、同時期にTHE BOOMが歌う「考え方しだいで世界は丸かったり 考え方しだいでコンペイトウにみえたり」(『逆立ちすれば答えがわかる』より)という歌詞が重なって、とらえかた、というのを実感したような気がします。

上方向か、下方向か。それは、同じ事象に対して前向きか、後ろ向きか。つまり、ポジティブかネガティブか、みたいなことになって、なぜか転じて、ノーテンキとかオメデタイなんてことで「あいつは○○○○○」と言われたりもして。

元来、おそらく、とても後ろ向きで、じめじめしたとらえかたが多かった記憶がありますが、ある時、ふと、いやいや、そうでもないでしょ、という考え方が芽生えて、以来数十年の蓄積で、メデタク、ポジティブになったような(私です)。

ある状況下で、外向きに何かのせいにできない時、どんどん内に向かっていきますよね。自分が悪い、だからダメなんだ、なんて。そんな風に考えてしまうのは、おそらく自然なことで、私は決まって、だからこそ能天気に、思い切りオメデタク、〈違うこと〉を考えるようにします。

空間を飛び越えて、時間も歪ませて、まったく別の、例えば、ドラえもんと、のび太と、ジャイアンのことを思い浮かべて、「そこ」にいるようにするのです。

ひとりで旅して、ひとりで眠りにつくとき、考えれば考えるほど、窮地でピンチで、逃げ出したいけど、そうも言ってられない時、「同じ空間と時間」を、どうとらえるかの違いで逃げてもいたし、それゆえ、意外と軽く飛び越えることもできた、という経験値が私にはあります。

これが、もしかすると、強みかもしれないな、、、

と、あの頃、1日10ドルほどしか使えないニューヨークの安いホテルで、ドミトリーに精神的に疲れ、帰国までの残り日数を数えながら、ぐんぐん底へ底へ、夜のパトカーの音と傾いた床とベッドと、、、なんて気持ちが、ふと蘇ってきます。

内向きに考えている「自分」の表情は、他人から見ると不可解で、決して気分のいいようには映らない、ということに気づくまでは、そうやって、まぁ、じめじめと後ろ向きだったんだと思います。

ゴールデンウィークを終え、学校に行きたくないと訴える子供(のSOS)に対して、親はどうすればよいか。今週はそんなニュースも目立ちましたね。何しろ、10連休明けの通常生活でしたからね。

学校は、行きたくないなら行かなくてもよい(行かない)という選択肢を与えることが重要だと、往々にしてそんな意見が多かったと思います。なるほど、その通りだし、私自身もそう思います。

が、現実的に、子供が学校に行かない中で、自分は働きに行けますか? 今や、母親が働く、父親も働くなんて常識(になってますよね?)の日本で、いざ、小学校・中学校に行きたくないという子供のSOSに「行かなくていいよ」という反応が即答で出来ますかね?

ここにある、「学校に行く・行かない」という二択だけでは、限界があるようにも思います。子供に対して与える選択肢が、学校に行くか・〈あそこ〉に行くか、というように、学校と家以外の〈あそこ〉という場の提供がマストなように思います。

学校に行かないなら、家にいるしかないというのではなく、例えば区民センターのコミュニティや、隣町のスタディセンターなどに行く、というのがあればいいのに。

そんな場の提供に費やす金と時間はどうするのか、なんて議論の詰まりで、なかなか進んでいない現状を見ると、まぁ第三の場の提供は、そう簡単なことではないんでしょうね。

学校以外の子供の〈場〉は、そもそも家があるじゃないか、なんて吹聴する(家庭を顧みない)おじ様議員の声が聞こえてくる気もします。

学校に行かない、なら家にいる。じゃ、家を〈あそこ〉にするしかないのかな。第三の場を作るのではなく、既存の(家という)場を選択肢の一つとして成り立たせる。

でもなぁ、主夫でも主婦でも、どちらかが専業となると、なかなか生活がなりゆかず。。。と思い始めた時、ふと、リモートワークス、在宅勤務があるじゃないか!なんて働き方が浮かんできます。

だいたい、大人(親)自体が、同じような時間に、同じような場所に集まる習性があるから、子供が学校という決まった時間・場所以外の選択をすると、なんだか後ろめたく云々思うのではないか?

地獄のような満員電車での痛勤に耐えてまで、オフィス街の同じようなビルの小さな席に座って、PCをはじく必要は本当にあるのかな?う~ん、どうも首を傾げてしまいます。

もちろん、痛勤電車で通っているような職種の人の多くは、大きな機械で特殊な技能でもってモノを造りだす製造業の人ではなく、PC画面上で通信ネットワークで業務完結する人が多いという前提に立って、ということになりますが。

であれば、学校に行きたくなら、行かなくていい、家に「一緒に」いよう、という即反応ができるかもしれません。

クロールやバタフライが友達はできるのにぼくにはできない。お兄ちゃんはすらすら解くのに、ぼくには出来ない。漢字をすぐに忘れてしまう、あの子はいつも先生に褒められるのに。などなど、そういう自分の周りに対して劣っているところばかりに焦点を合わせて、どんどん内向き・後ろ向きになっていた頃、、、

そういえば、職人だった私の父は、母と一緒にずっと家にいたことを思い出して。だから、どう、ということもないのですが、ま、別に学校が嫌なら、家に居ればいいだけだな、という選択肢があったように思います。

そんな私も今や、一人の子の親です。

もし、子供が内向き・後ろ向きになった時、ちゃんと正対した何かを、自分の言葉で伝えられるだろうか(もしくは伝えているだろうか)?と自問することもあります。

そして、「ま、別に、嫌なら家に居ればいいだけだな」と思わせているかどうか、などなど。

周りの子と比べる必要はないだの、自分自身との闘いに勝つことが大事だの、どこかで聞いたようなことを思い浮かべては、う~ん、どうもしっくりこないな、というモヤモヤの日々です。

人と比べて競争して、勝ち残って行って欲しいけど、負けて全否定するぐらいなら、競争なんてしなくてもいいし、勝たなくてもいい、とも考えてしまうけど、だからといって、ちゃんと負けも(もちろん勝ちも)実感して欲しい。

今のところ、はっきりしているのは、「全部、もう、どうでもいい」と放棄してほしくはないな、ということだけで。負けたら負けたで、勝つために、勝ったら勝ったで、負けないために、どうしたらいいんだろ、どうしたからよかったんだろ、みたいなことを考えるんじゃなくて、感じてほしいな。

それは明確に思います。そして、後ろ向きなら後ろに回って、下向きなら同じぐらいまで下がって、いつも、出来る限り、正対していたいな、と思いつつ、です。

前向きの時は後ろからそっと、上向きの時は落ちてきたときに受け止めるために下で、そういう子供との距離感を大事にしながら、ちゃんと正対すべき時に備えて、面と向かって伝える思いを・言葉を用意して、いるべきだなと思っています。

結局のところ、あ、そうか、場所の問題じゃないのか、とも。空間・時間を超えて「逃げてきた時」、ちゃんと正対してくれる人(親)がいる。それを子供には絶対的なモノにしないといけないな、と。

すやすや眠る息子を見ながら、思ったりします。

 

 

SHoGo PaPeR

 

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