眉間にシワをよせ、薄いため息をはいて、奥歯を噛み締める。
なんだかなぁ。
季節変わりのフェイントに若干の苛立ちを隠せない。
積み上がる実感をなかなかもてないままに日が過ぎていく。後退してなるものかと。奥歯を噛み締める。
昇るもの、昇らざる者。
持てる者、持たざる者。
選ばれる者、選ばれぬ者。
自分がどちらであるかと、人は皆考える。
けれど、そんなものはただの分別であり、分布図を書き記すようなものだ。どこにいようが、底辺でもなければ頂点でもない。
勝負ごとに勝つには、自然と己との会話になるから。
己れに、勝つ。
との意味を、もつ僕の名前。「勝吾」
両親の生きてきた、魂が詰まってる気がして、何度も自身の名前に救われる。
日々を踏ん張って歩いていくと、日々は自ずと過ぎていく。
どう過ごそうが、物理的には過ぎていく。
今日やれることを、今やれることを。
奥歯噛み締めてやる。
そんな季節の変わり目に、遅れてやってきた台風は様々なものを様々な傷を残していった。
僕の預かり知らぬところでも多くの被害が。
そんな時に僕らが携る仕事というのは、懸命に、ということしか出来ない。
自らのいる場所で届けることしかできない。
無力さと同時にそれは人それぞれにおいて普遍的な事であるとも感じる。
以下でも以上でもなくて、各々の裁量と力で生きているわけで、出来ることを全力で。出来ないものは出来ない。
ただ懸命に。
ちっぽけであり同時に偉大でもある。
部屋の鉢植えを眺めて思う。
それは、この鉢植えの中で精一杯に生きるしかないのだ。
確かに人間は足がある。
歩ける。何処へでも。
それでも、欺瞞が渦巻き、不誠実で理不尽な人間が横行し、天災やら何やら溢れる、不条理なこの世界で生きねばならない。
やはりちっぽけであり偉大である。
しかもそれはどこまでも自然だ。それがデフォルトだし、ニュートラルだ。変わらぬことだ。
変わらぬことを嘆いても、変わらぬ。
無論嘆く時があってもいいと思う。この世界への嘆きはどの時代でもどの国でもされている、されてきた事だ。
でも嘆いても、変わらぬ。
鉢植えの中にいることはどうにもならないのだ。
変えられること、自分が出来ることを懸命に取り組む他ないのだ。
だから。懸命に、賢明に。空に昇るのだ。
こんな事をいうと、
「そんな事はわかりきっている、うるさい」
と聞こえてきそうなものだが、
少し考えれば、当たり前のことを僕は最もらしく文字にする。
それは
そんな自明の事実すら、日々に、押しつぶされ、先に述べたような世界のあらゆる要素に呑み込まれ、霞んでいってしまうからだ、そして、人間は迷う。
だから時折。その「わかりきっていて耳にタコが出来そうなこと」を何度も擦ってみるのだ。
再確認。再認識。再決意。のために。
怠惰で、すぐに物事を忘れ。真理を見失ない、本来大切であろうものを蔑ろにし、欺き、傷つけ、それに気づかず、後で嘆き、迷う。
そんな矛盾と甘えだらけの人間だから。
「わかりきっていて耳にタコが出来そうなこと」をシンプルで明白な事実を指標を容易く無くしがちなものだから。しれっと忘れてしまうから。
まぁ、それも、また自然なことなのだけれど。
僕にとって、言葉や、お芝居はそういったものを思い出させてくれるものであり場所だ。
だから。今いるところで懸命に。空に憧れ、天に向かって今を懸命に。今を愛でる強さを。
寒い秋すらも、春のように愛でたい。