sd-1127〜ビブリオバトルを終えて。 | 鈴木勝吾オフィシャルブログ「Smiling days★」Powered by Ameba

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ビブリオバトル。

ご来場頂いた方ありがとうございました。

日は空いてしまったけれど、話そうと思う。



初めてのことに、最初はどう向き合うべきか分からなかった。けれど、マネージャーさんにこのお仕事のお話を頂いて

「鈴木さん、何か人に勧めたい本はありますか?」

それだったら、これしかないって本があります。
との話をした。
とんでもない本があります。と。

そしていざ出演が決まった時から、少し迷いがあったのは事実だ。
それはこの本「殺人犯はそこにいる」を何度か読み返していた時、何周目だったろうか、思った。
これを人前で5分で説明するなんて到底無理だろうと。そしてまた何周かすると思うのだ。
『なにより、一俳優が、この本を人に勧める資格があるんだろうか』と。
扱ってよいのか。正直ひよった。びびった。まぁ言い方はなんでも良いが、とにかく腰が引けたのだ。
ノンフィクション、つまり実際にあった事件しかも未解決。筆者である清水さんは相当な覚悟で向き合った筈だ。いやそれはこの本を読んだ人なら疑う余地はない。

「ビブリオバトルという場所に持ち出して良いものなのか。」

色々な誤解を恐れず、忌憚なくいうとすればこの通りだ。


最初僕にできたのはひたすら本を読むこと。
そして、この本において伝えるべき事。重要だと思うこと。etc…
ひたすら書き出す。こと。
するとどうだろう、正直、どの章をとっても、どの文をとっても全てかかすことのできない事ばかり。当然といえば当然だ。清水さんが途方も無い取材をして実体験として書いている。そしてきっとこの本に書くべきか、幾度となく推敲を重ねて書いた本だ。それを端的に、5分で伝える。

どの言葉もどの事実もこぼすことが出来ない。

まとめたことを原稿に起こしてみる。当然5分ではとても収まらない。

そして、当日も言ったように、どうしてよいか分からなくなり、現場へと足を運んだ。
行ったところでどうなるとも思えなかったし、結果、何も出来ない。白状すれば、当たり前にそこで当時の事について誰かに取材したりするような勇気は僕にはなかったわけだ。
ただ足利、太田と街を歩いて、渡良瀬川を眺めて、河川敷を歩き。現場はあの辺りかと。地図と照らし合わせる事くらいだ。
驚いたのは足利警察署が思ったより現場と近かったということ。恐ろしい事件だと思った。
それでも本を読んでいるだけよりはよかった。
筆者のように現場そのものを特定することはできなかったから、河川敷に立ち手を合わせることくらいしか出来なかった。
それでも犯人がもしかしたらまだこの付近にいるとしたら…と考えると。ゾッとした。道行く人にある意味ひょっとして…などと思ってしまうのだ。

そして、また都内に戻り、また本と向き合あった。

僕はよりどうしてよいか分からなくなっていた。



ビブリオバトルのルールはこうだ。
バトラーが紹介する本のうち、読みたくなった本に観客、バトラー等々が投票する。
だから参加者は誰かにそのおススメする本を選ぶ。

当初、人に勧めるほどの本がこれだったからこの本を選んだ。好きな本も読んでほしいと思う本もある。が、これは読むべき本だなと思った。だから選んだ。
そしてぼくのやる事は、
ただ時間内で、ちゃんと"すべき"ことを出来ればよいと。その目的は「この本を読みたいと思わせる」こと。すなわち、すべきことは「如何に読みたいと思わせるか」だった。
しかし、当日のために本を読めば読むほど、この"ちゃんとすべきこと"が変わってきた。
正直ビブリオバトルという競技本来の目的、チャンプ本を目指す(もしかしたらそうとも限らないかもしれないが、ルール上のゴールという意味において)というのは精神的にはどうでもよくなっていた。
目的は「この本を読みたいと思わせる」ではなく、「この本を知って読んでもらうこと」になり、すべきことは、『想いを伝えること』になっていた。

実際の結果に対して思うのは、
チャンプ本に選ばれたという事実より、「より多くの人が読みたいと思ってくれた」という事実の方が僕にとっては重要だということだ。
さらに言えば、そこから実際どれくらいの人が読んで下さるのか、ということ。



都内に戻ってきてからより頭を抱えた僕は、筆者の事を考えていた。

筆者がこの本を書いたのは、事件の全面的解決のため、真犯人逮捕のためだと思っている。

つまり、何を書けば事件を知ってもらえるだろうかと考えたんだと。その為に何をどう書くべきか、をきっと考え抜いた。
偉そうに言うつもりはない、が一読者が思ったことだ。
その末にこの本があるんだきっと。

そう思って少し道ができた。

だったら!!
僕は本を知ってもらえるように必死に考えればいい。と。
読んでさえ貰えれば、そこから先は清水さんが記しているのだから。

本と向き合えば向き合うほど、この本の性質上。本ではなく事件そのものと向き合うことになる。
するとどうなるか?
この事件をどう伝えればいいか、どうすればこの事件を知ってもらえるか?などと考えてしまう。

実におこがましい事だった。

だって僕に今回できるのは、『本を紹介する』ことだけだから。

だから僕が考えるべきは、

この「事件」に向き合うことももちろん必要だが、この「本」に向き合うことだった。

どうやったら、この本を知ってもらえるだろうか?
この本を伝えるには、どうしたらよいか?

この本の何を伝えれば、この本を読んでもらえるか?

これを考えればよいのに。

というより、それが本来の出発点だったはずなのに。

いつのまにか、そうなっていた。

ただの一読者をここまで思わせる本。

本当にこの本は凄い。事件自体に対する驚き、事実とされるものに対する憤りもそうだが、あまりにも緻密かつ繊細に丁寧に根気強く綴ってあるものだから、自分がこの事件と出逢った気になるのだ。

だからこそ、自然と事件を伝えたくなる。が、それは本編を読んでもらうことが尚よいわけで、本を伝えるために我慢せねばならなかった。

だし、結局僕ができるのは事件関しては伝聞になってしまう。でもこの本を読んで、伝えたかった想いは伝聞ではなく、本当だ。読んで欲しいと。

それでも、事件の起こりだけは、この本がノンフィクションである以上なるべく盛り込んでおきたかった。
5分という中ではだいぶここが占める部分が大きいが、それでもだ。

それから、犯人を捕まえない理由、一番の衝撃であり、パンドラの匣とされている事に関しては、そのこと自体ではなく、結局はそれがどう言った事を意味するのかを筆者の考えに沿って話すに留めた。
それこそ、例えばDNA型鑑定一つとっても、初期のMCT118法、マーカーに問題ありと新規マーカーに変更後の数値の置き換え。再鑑定、再審にて行われたSTR法。そして、検察側と弁護側、それぞれ鈴木鑑定、本田鑑定のズレ。再審における無罪判決時の検察側の鈴木鑑定のみを証拠採用するとした文言。そしてその意味。
果てには飯塚事件の事にまで触れねば説明しきれなくなってくるからだ。
たとえ5分で説明できたとして、それは証明に過ぎないし、『本を読ませる』に繋がると思えなかった。よってこの本の核とも言うべきものをずっぽり割愛することにした。なぜならそれは読んでもらえればわかるからだ。
こうして事件の起こり〜概要までは、なるべく完結にまとめた。

そして、後半は想いだった。
どうしたら読んでもらえるかの答えはこれだった。
僕は作家でもないし、読書は好きだけど本のプロでもない。ましてや記者でもなければ、ジャーナリストでもない。
鈴木勝吾というちっぽけな人間だ。
そして僕は嘘と理不尽と真面目な奴が損するのが大っ嫌いだ。
この本は正直言えば、そんな僕の性分にとっては嫌いなもののオンパレードだ。ある意味では読みたくなる要素を含んでいると言ってもいいが。
許せないし、許さない。
けど、何もできない。
だからせめてなんか一矢報いたかったのかもしれない。それはただ読んで欲しいという想いで。
そして僕は役者だ。
役者でありながら、今回のは役者という仕事の範疇ではない事だった。それでもやはりそれは自分の問題であって、外から見れば役者鈴木が話していることに過ぎない。ましてや紀伊國屋ホールでやるという事は舞台を主戦場としている僕にとっては大きな事で、中途半端なことはしたくない。「5分で全てやり尽くすには」「五分で伝えきるには」
出した答えは、『役者として、人間:鈴木勝吾の思いを伝える』だった。
全ては読んでもらう為に。読みたいと思ってくれたり、チャンプ本になるというのは置いといて、その先にある『実際に読む』ところまでもって行きたかった。
とは言え、みなさんが実際読むか読まないかは誰にも分からない。
例えば、喉の渇いた馬を川辺まで連れて行くことは可能だが。実際その水を飲ませることは誰にも出来ない。最後の最後は当人以外誰も何も出来ない。
だから僕は「想いを伝える」「実際に読ませる」と図々しく吠えているが、僕にできるのは、

「本を紹介する」

そう、これしかできない。

あとはどれだけ、皆さんに届くかを祈るのみである。

どうか1人でも多くの方に手にとって頂けますように。

そう祈りをこめて、壇上に立つことだけだった。


結果今どれくらいの方が読んでくれたのだろう、あるいは読んでくれているのだろう。

そう考えると、多少怖い気もするが。この本に会えて、この本を知れて、そして紹介することができて良かったと心から思う。

僕も読んだきっかけは紹介だったから。


どんな動機でもいい。読んでほしい。
きっと何かが変わる。

そして、その小さ変化が大きな変化をもたらすことを祈る。