元気のいい運動会の練習の声が聞こえる。


近所で遊ぶ子供たちも応援歌を歌っている。


朝ドラで戦地へ行くシーンを見て鳥肌。


あ、


運動会で小中学生が歌っているのは


軍歌なんだ。


この平和な日本にも


色濃く残る戦争の影。


国歌斉唱。


私たちの頃は歌わない先生がいた。


半数くらい立ち上がらなかった。


今は国歌なので歌わないことは許されない。


思想とか関係ない。



新潟県美術展覧会出品作品


毬子(きゅうし)


一二三四五六七(ひふみよいつむなな)


良寛の詩より


良寛様は常に懐に毬を二三個入れて


大切にしていたそうだ。


子供たちと遊ぶのをとても楽しみにしていて


毬つきの名人だった。


良寛さん、良寛さん、


あなたはどうしてそんなに毬がうまいのですか


極意を教えてください、


と聞かれ、


一二三四五六七だよ、と答えたという。


私は今年から独立した。


師匠の元を離れ、


一人で書道と向き合うと決めた。


作品を生み出すのは苦しみだった。


痛みもあり、難しさもあり、


誰も助けてくれない、


誰も共感してくれない、


なかなかの戦いだった。


孤独とは自由ではない。


暗闇を手探りで進むことだった。


それでも、私の懐には毬子があって


あたたかで変わらぬ情熱で


私は私のままでいいのだ、と思うのだった。


誰かと比べる必要はない。


選ばれる必要もない。


私自身が納得いって、満足いって


作品を世に送り出しているのだから


審査員の評価なんてどうでもいい。


これからも自分のリズムで歩いていく。


毬をつくように、


ひいふうみよいつむなな、と。


ただ、


選ばれなかったということは


飾られないということである。


誰にも見てもらえないと


返ってくるエネルギーが少なくて


循環できなくて寂しい。


私は次へ向かって進む。


多字数が多く入賞した気配のある今年、


しかもカッチリしたオーソドックスな作品が


求められた傾向を感じる。


このメンバーでは


私の作品は異質過ぎるだろうから仕方ない。


落ち込んでいる暇はない。


やらなければならないことは山ほどある。








公募展に多数出品して、

それは書道じゃない、みたいに扱われて

現代アートかと思ったらそれも違って

デザイン、でもないし

前衛まで振ってない気もするし

普通っぽく、と思って作っていても

普通ってなに、普通ができないのよ

ってなるわけ。

昨日書いた作品は

かなり書道書道したわかりやすいテイスト。

私の作品を見た方が

命を削って書いてるね、と言っていた。

文字がどうとか、

読めるとか読めないとか、

筆が何であるとか、

関係ないと思うの。

書きたいものを魂込めて、

それこそ体の一部とか血液入れるくらいの

そういう精神でバンッて書けば

そのうち誰かの心に響くでしょう。

両親は公募展出さずに個展すれば、って

いつも言うんだよね。

それはモチベーションの問題だから。

何かに向かって書いていると

規定サイズがあったりして

やる気が出る、というか。

でもな、飾られなかったら意味ないし、

個展に絞って、

もっと回数増やすってのも手だよな。

残すところ、今年はあとひとつ。

東京書作展だけなんだけど、

そのための制作終えたら考えようかな。

認められるって何か賞をもらうこと、

ではないかもしれない。

書くことは呼吸することと同じで

私にはなくてはならないものでね

楽しくて楽しくてどうしようもない

あのときの感覚がずっと訪れてほしい。

おいしいものは

作っているときも食べているときも幸せ。

そんな毎日を送りたいな。

手放す、ってとても難しい。

その先未来、解放された私は

どんな作品を生み出すのかな。