過去、12、3年くらい「書道」を習っていたのですが、どうやら私は「書道」の入り口にも立っていなかったらしいということに最近気づきました。
どういうことかと言いますと、私が十数年やっていたのは「習字」だったのです。
読んで字のごとく師匠(先生)から字を習っていただけということです。
今までちゃんと吟味したことがなかったのですが、進学や就職面接で堂々と「書道◯段です!」なんて言っていたのですが…私がやっていたことって書道だったの?とふと思ったわけなのです。。。^^;
長らくやってきたわけですが、書道と習字の言葉の区別など全く意識することなく続けてきました。習っていた他の人たちはどう思いながらやっていたのかは分かりませんが、習っている間に意識する人はするんじゃないかなーと思うんですよね…多分。
みんな最初は「書道」ではなく、恐らく厳密に言えば「習字」から始まるんだと思います。
習字を始めたらまずはある程度の土台作りからです。達人やプロと呼ばれる人たちのように最初から行書体、草書体は書けないですし、見よう見まねで書ける人はいるかもしれませんが、それを書けるだけの技量も経験もないはずです。ですので、楷書体から地道に練習を続けていって、師匠が所属している書道団体などで毎月行われるコンクールのようなものに自分の作品を書いて送るのです。それを何年も続けながら少しずつ級や段を上げていくわけです。
さて、どのタイミングで「習字」から「書道」へシフトするのでしょうか?
書道家として活躍している方々始め、昨今では子供でも大人顔負けに活動している方もいたりしますね。
ある程度上手になったらなれるものなのか?、それとも世間から評価されたら?、はたまた、師匠から教わることがなくなったらなのか?
うーん。。。これは難しいところです。
でも、1つ自分の経験から言えることは、ただ技術的な上手さだけを追い求めていたり、お手本通りに正確に書けるようになるとか、団体などが発行している会誌に載るように書くとか、そう言った理由では、ただ「習字」をやっている段階から抜け出せていないんだろうと思うのです。
私はこの段階で辞めてしまった…というかここから先にある「書道」の入り口が分からないまま辞めてしまいました。(当時は「書道」をやっていたつもりだったので、そんなことすら考えてはいなかったのですが、あえて自分の立ち位置を表すとしたらそんなところでしょうか)
技術や上手さを追求することは決して悪いことではないですし、運動と同じく稽古事でも上を目指したいと思うことはごく自然なことです。ですが、それだけではまだ自らの「道」を歩き出してはいないと思うのです。
辞めてから10年くらい経った最近、やっとそこに気づきました。私は先生が示してくれた道をぴったり後から着いて行っていただけでした。
もちろん、当時は楽しくやってはいましたが、書くことを通して私は何を表現したいのか、何を伝えたいのか、何を字に込めたいのか…などなど、そういった自分自身との対話をしながら書き上げたことはありませんでした。
日々の生活の中での様々な葛藤や渦巻く感情、思いなど、そういった自分自身との対話を通して1つの作品を書き上げる。ここに至って初めて「書道」の入り口に立つのではないのでしょうか。
「道」と名のつく稽古事は、ある程度まで進むと自分自身とのコミュニケーションが必要になるように感じます。柔道、剣道、合気道、弓道、茶道、花道…など。
現代ではどれも気軽に習えるものですが、どの程度情熱を傾けるのか、本気度でやるかはその人自身に委ねられいます。だからこそ趣味でやるという人も、プロを目指す人も、生涯学習としてやる人もいるわけで、どんなあり方も間違いはないはずです。また、書くことを通してどのように向き合っていくかも十人十色なのでしょう。
そして、今更ながら思うのは、1枚の半紙に文字を書くにあたって、一時的にあらゆる制限や制約(倫理観や社会的、法的な固定観念、表現方法、時間など)に囚われる必要がなくなるからこそ自己表現というものを追究できるということです。(仕事や職業にしている方は少し別かもしれませんが…)
具体的に言うなら、日常生活でなかなか他人に理解されない思いや感情、自分自身でも折り合いがつけられずにいる混沌としている気持ち、今にも爆発してしまいそうな怒り、誰かと分かち合いたいワクワク感や喜び、どん底を味わった絶望感や悲しみ、燃え上がるような高揚感、一瞬で凍りつくような衝撃や緊張感などなど。不安、恐怖、憎悪、悲哀、虚無といったネガティブなものから、愛、感謝、希望、歓喜、快楽といったポジティブなものまでありとあらゆる気持ちを表現できるものだと思っています。音楽や美術作品などと同じですね。
いつもと同じ半紙に同じように書いたとしても、書くタイミングによって出来上がる作品は違ったものになると思います。そうして完成したものを見た人は、それが心に響いてきたり、何かインスピレーションが沸いてきたり、感動したり、ちょっとモヤっとしたり、違和感を感じたりなどなど、感じ手も様々なものを感じ取ります。それもまた自由です。
書き手と鑑賞する人の交わりだったり、葛藤を通しての自己を体現したりする中で、「習字」としてやっていたものが「書道」という道に変わっていくのではないのかなと今は思っています。
…なんて経験談から書いてきましたが、上記のことは決して簡単なことではないでしょう。
だからこそ面白い、楽しいなんて言える境地まで行けたらどんな風なんだろうと思うのですが、書道に限らずどんな道も気長にマイペースに歩いていくことが大事ですね。